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「……ことの次第をお話しするにあたって、まず、私のささやかな趣味についてご理解いただかねばなりますまい」
己の整った口髭に触れながら、王国男爵ノアルはそう切り出した。
場所は、騎士たちのとった個室である。備え付けの、小さな二人掛けのテーブルに、リンドグレンが男爵と対面している。エクレイドは相棒の背後、己の、と決めた寝台の上に陣どっていた。
すでに日没を迎え、鎧戸を下ろした部屋の中には暗闇が溜まっている。それを隅へ掃き散らす燭台の光が、彼らの影を、大道芸人の人形のように揺らしていた。
「――私は、さまざまな時代のさまざまな書物を蒐集することが好きでしてな。あちらで古い詩篇が発見されたと聞けば求めに走り、こちらで新しい学術書が出版されたと知れば取り寄せ、とまあ、日々と財産の大半を、皮紙とその上に連ねられた知識のために費やしているといった具合で」
「まるきり、私有財産を持ったきみ、といった風情だな、リンドグレン」
「静かに」
率直な感想を呟くエクレイドを制し、青年騎士が先を促す。
「それで?」
「つい先日のことです」
男爵は懐に手を伸ばし、上着の下から、油紙に包まれた何かを引っぱりだした。
「私の道楽を知る、とある人物から声がかかりました。取り壊した館の塀のそばから、何やら不思議な、古文書のようなものが見つかったのだと。もちろん私はすぐさま飛んでいって、それを検分いたしました。趣味が高じて、とでも申しましょうか、これでも古い言語や文字にはくわしいほうでして」
彼は大事そうに、手の中の包みを撫でた。
「しかし、文書に記されていたのは、私などでは太刀打ちできぬほどに複雑で難解な言葉だったのです。古代ラルギネア語の面影も多少はあったように思いますが、むしろこれは、さらに古い神話の時代に基を持つものといったほうがふさわしいでしょう!」
ご覧ください。言いながら、ノアル男爵は包みを解いて、件の古文書とやらを蝋燭の明かりにさらした。
「――……」
リンドグレンが瞳を細めて、卓の上に現れた色褪せた皮紙の束を見つめた。エクレイドは首を伸ばして、彼の肩越しに、それを視界へ入れる。
「変わった書物だな」
彼女は端的に評した。
古文書は、確かに書物と呼ばれるべきものの範疇にはいるのだろう。だが、一般に想像されるだろう形状に比べて、その造りは驚くほどぞんざいだった。
裁断して大きさをそろえることなど考えてもいない、剥ぎ取ったままのようすをした皮紙の上に、記号のような文字が所狭しと並んでいる。表紙などは無論なく、装丁といえば、紙束の上の部分を固くとじた、茶色い紐だけがそうなのだろう。
リンドグレンは無言のまま、奇妙な皮紙の束を手にとった。 何かにとりつかれたような凝視は、彼が対象に、多大な興味を示しているという証拠だった。ていねいな手つきで、古文書の頁をめくる。
「……確かに、ここに記されているのは、かなり古い時代に用いられていた、特殊な文字のように思われますが」
「そうでしょう、そうでしょう!」
彼の呟きに、男爵は満足げにうなずき、ずい、と身を乗り出した。
「解読できますか?」
「資料と時間が充分にあれば、あるいは……」
言いさしたリンドグレンが、目線をあげた。途端、面食らって顎を引く。卓に覆いかぶさるように、ますますのめったノアルの顔が、あまりにも至近にあったためだ。
「男爵殿」
「解読していただきたいのです、あなたに」
燭台の炎を映した男爵の眸は、ぴたりと青年騎士に据えられていた。それには彼の、表情に乏しい面から、たじろぎを引き出すだけの力があった。
「……失礼ですが、男爵殿」
リンドグレンは古文書を卓上に伏せながら、慎重に唇を割った。
「我々は使命を負った〈巡察騎士〉です。あなたが私に関して、いったい何を聞き及んでおられるのかは存じ上げませんが、確かに私には、古い言語にまつわるいささかの知識があります。……しかしこの書の研究をお望みなら、託すにふさわしい機関と人物が、他にあるはず」
「他に、とは?」
「マグリヴ大神殿へ持ち込み、
隠された知識の女神の
神官に、委ねることをおすすめします」
「ああ、それでは意味がないのです、タート」
大袈裟な嘆きの声を発しながら、道楽貴族はおもむろに、書物の上にのせられた青年騎士の手を握りしめた。リンドグレンはぎょっとして身体を強張らせた。
「グレーネイ神殿に持ち込めば、この文献は神殿の書庫に収監されてしまうでしょう。それではわたしの収集品ではなくなってしまう」
「じゃあ、他に、その筋の研究家とか、学者とかに、心当たりは?」
腰を浮かせたエクレイドが口を挿んだ。彼女には、唐突な肉体的接触に免疫のない相棒の、緊張と動揺が手にとるように伝わっていたのだ。
「確かにライファラス神殿の中で、タート・リンドグレンの聡明は知られたことかもしれませんが。だからといって何もわざわざ彼を捕まえなくても、専門家に依頼したほうがいいんじゃないかな」
「まさか! 彼は私が知るかぎり、最高の専門家ですよ」
男爵は、青年の手を掴んだまま破願した。
「タート・エクレイド、あなたも、かの有名な『デリカ=レイ』のことはご存じでしょう?」
「デリカ=レイ?」
女騎士は首をひねった。聞き覚えがあるような気もしたが、いつどこで縁のあった、どんな話だったか、定かではない。
「おや、ご存じありませんか」
「あいにくね」
肩をすくめるエクレイドに、まだ半ば固まったままのリンドグレンが、注釈を入れた。
「……現在大陸で発見されている中で、最古の歴史書といわれている書物だ。前王国時代を遙かにさかのぼる、推定で二千年以上前の記録が、詳細に残されている」
滔々と述べながら、彼はようやく自らの手を取り戻すことに成功し、ほっと溜息をついた。
「
悪鬼や、神学の範疇に入る記述が大幅に紙幅をとっているために、長らく史書としての精度に疑問がもたれていたものだ。……以前、説明したことがあっただろう」
「そうだったっけ」
「そうだ」
「しかし、名著です。あの書の記録から、古代の人間がどのような思想や文化に基づいて生を営んでいたのかが、よくわかる」
ノアルは空いてしまった手を組んで、そこでなぜか、誇らしげに笑った。
「そして『デリカ=レイ』は、記述に用いられている文字のあまりの古さから、長らく、ほんの断片的にしか内容を読みとることができなかった書物でもあったのです。その全訳を成し遂げた方こそ、誰あろう、今我々の目の前にいる、タート・リンドグレンなのですよ」
「は……」
エクレイドは思わず、相棒を凝視した。
「ただ本に埋もれるだけじゃなくて、そんなことまでやっていたのかい? リンドグレン」
「……
神殿長さまのご命令でな」
エクレイドとはまた別で、戒律に忠実なため、嘘のつけない青年は渋々うなずいてみせた。
「提出した資料には、一切署名はしなかったはずなのだが」
「これほどの偉業の主、調べればすぐに知れます。一葉の皮紙の上に秘せられた歴史を暴くより、数倍簡単なことですよ。何しろかの偉大な過去への扉が開かれたそのときから、その鍵の持ち主を深くお慕い申しあげていた私です」
輝くばかりの顔をした、男爵の熱弁に、エクレイドは諸手を挙げた。それなりの学はあるものの、学術的興味などというものに縁遠い彼女には、相棒の隠れた著名もそれに対する男爵の興奮も、まったく理解できない感覚だった。
なので、彼女はあっさりと、問題の矛先を専門家のほうへ向けた。
「それで? いったいどうするんだい、
先生? わたしとしては、どちらでも構わないけれど」
「……我々は使命を抱えた身だ。一冊の書物のために、それを投げ出すことはできない。――そもそも、必要な資料がそろわなければ、古書の解読など」
「それでしたら、我が館へおいでください。私の書庫には、たいていのものがそろっていると自負しておりますよ」
すかさず、提案するノアル。
とどまることを知らぬ熱意に、リンドグレンはむっつりと黙り込んでしまった。不機嫌なのではなく、困っているのである。寄った眉毛を鑑みてそう判断すると、エクレイドは助け船を出した。
「じゃあ、こうしたらどうだ。数日男爵の屋敷に滞在して、その文書に記されたものの、概要を調べる。それで、特に重大な内容じゃなければよし。もしも第二のデリ……ええと、幻の書だったときは……」
「そのときは……?」
拳を握って意気込む男爵に、彼女は舌を見せた。
「そのときになって考えよう」
男爵が激しく瞬きし、リンドグレンはこめかみを押さえた。女騎士は脚に頬杖をつきながら、相棒に問うた。
「それでいいだろう? どうせ今は暇だし、少しくらいの脱線なら、ライファラスの法に背くことにもならないさ」
「……わかった」
不承不承、リンドグレンが
諾う。ノアルは椅子から跳び上がった。
「ああ、感謝します、神よ!!」
彼は例の派手な帽子と、大事な書物を一緒くたに胸に抱きしめ、踊るような足どりで部屋の入口へ駆け寄った。
「部屋を取って参ります! それでは、明日の朝、二つ目の鐘が鳴るころに、下の食堂で!」
去っていった男爵が、突風を吹きつけるような勢いで閉じた扉に、青年騎士がのけぞる。
エクレイドは呑気に伸びをした。
「二の鐘か……明日もやっぱり、早起きしなければならないみたいだな。どうやら、きみがゆっくり聖堂でひざまずけるのは、しばらく先のことになりそうだ」
頭を振り、リンドグレンは疲れたように立ち上がった。それを横目に、靴を蹴って寝台に倒れ込んだ彼女は、ふと、失笑した。
「……どうした?」
「いや」
首をもたげて、女騎士は表情に、愉快さを露わにする。
「神殿に行かなかったわたしが無事だった代わりに、きみがきみのオデュロン卿に捕まってしまったというわけだな」
青年は、咎めるような目つきで彼女を見おろした。エクレイドは邪気のない微笑みを浮かべると、欠伸を噛み殺し、着替えもそこそこに毛布の中へと潜り込んだ。
就寝の挨拶を告げるやいなや、健康的な彼女の上には、すぐさま眠りの雲が訪れた。
嘆息し、散乱した靴を几帳面に並べると、リンドグレンは相棒の分まで神に祈りを捧げるべく、東の空を探して膝を折ったのだった。