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聖剣

Laura-Iert

後編



 二隻の船の間には、船縁から、二枚の板が渡された。
 幅はおよそ一リンガム(約三十センチメートル)強。それが、大股で二歩の距離をとって並んでいる。
 これが、騎士長と海賊の頭目の、一騎打ちの舞台であった。
「悪いことは言いません、おやめくださいセル=ラトクさま。こんなのは、正気の沙汰じゃありません。相手は、もう十年も海の上で暴れているゾルディですよ? あなたのお強さは身に染みてわかりましたが、この勝負はあんまり不利です」
 船長が、準備のできあがった決闘場を横目に、少年へと囁いた。
 セル=ラトクは自分の周囲に立ち並ぶものたちを見回した。船長だけではない。船員も、そして騎士と見習いたちが、不安そうな目で少年騎士長を案じている。
「閣下」
 一人だけ、毅然といっていい態度を守っているヴォルクロードが言った。
「一度だけ申し上げます。おやめなさい」
「……」
 相変わらずの呆れ顔である。しかしセル=ラトクは、副長の鳶色の瞳の奥に、武具のきらめきに似た重い光があるのに気づいた。
「ヴォルクロード」
「はい」
「一度受けた挑戦を放棄したものを、きみは騎士として認めるか?」
「相手と場合によります」
 きっぱりと言い切る副長に、セル=ラトクは思わず微笑を誘われた。彼らしい。
「そうか……。だが、わたしは認めない。約を違えることは、何より誓いによってその位を得る、神殿騎士の精神を汚す行為だ」
 騎士たちの、強張った顔を見る。これほどの不安を感じさせるのは、自分が至らないからなのだろう。セル=ラトクは静かに告げた。壇上で訓戒を垂れる、神官のような声で。
「心配することはない。あんな不埒ものに、わたしは決して負けない」
 騎士たちが息をのんだ。セル=ラトクは決闘場を振り仰ぎ、剣の柄に手をかけた。それを待っていたかのように、ゾルドモードが板の上にあがった。
 肘から先の幅くらいしかないその足場が、男の体重でかすかにきしむ。
「用意はいいか? 坊や。よければ得物を抜いて上にあがりな」
「ああ」
 セル=ラトクは抜剣し、船縁へ向かった。階がわりに組んである木箱に足をかけたとき、ヴォルクロードが手を伸ばした。
「閣下、鞘を」
 セル=ラトクは素直に剣帯を外し、それごと鞘を副長に預けた。台の上で身をかがめ、頭の位置が同じ高さになると、ヴォルクロードが目も上げずに呟いた。
「漁師のようにあなたの死体を捜すなんて、私は御免ですよ」
 何と答えようか思いつかぬままに、唇を震わせたときには、副長はさっさと歩み去っていた。セル=ラトクは再び敵に向き直った。
 負けはしない。
 心の中で繰り返す。こんな男に、負けるものか。
「ようこそ閣下。俺たちの舞踏場に」
 板の上にあがったセル=ラトクに、ゾルドモードが神殿仕込みの略礼をしてみせた。それを冷たく受ける。どこまでも、癪に障る男だ。
「勝負はいたって簡単だ。最後まで板の上に残ったほうが勝ち。死ぬか、落ちれば負け。船に戻ることだけは反則だ。もしも勝負がつく前に甲板にあがったときは、掟破りとして帆柱に吊す。それだけだ」
「わかった」
「それじゃ、はじめるとするか。最初は、反則を防ぐために互いの船の逆側に立つ。要するに、敵に背中を向けるのさ」
 言うと、ゾルディはひらりと隣の板に飛び移った。セル=ラトクも真っ直ぐに進み、相手の船へと向かう。
 風が強い。甲板にいたときは、何のことはないと思っていた。しかし、周囲から身体ひとつ分抜きん出て、この狭い板の上に立つと、身体に触れるもののすべてを、敏感に感じる。
 世界。
 広大な海に抱かれていながら、今これから、セル=ラトクの世界はたった二枚の板に縮小されてしまう。この、わずかな足場が、彼の生命をのせる重要な陸地になるのだ。
 セル=ラトクは、その事実を頭に刻み込んだ。しっかりと足を踏みしめ、板を渡りきる。
 彼が近づくと、甲板の海賊は、光を嫌う虫のように後ずさった。セル=ラトクは逡巡もせず、彼らに背を向けた。このときすでに、彼には、正面に相対するゾルドモードの姿しか見えていない。
「ひとつ訊きたい」
 ゆっくりと構えながら、セル=ラトクは言った。
「その剣に秘められた本来の〈力〉で、人を殺めたことは?」
 ゾルドモードは肩をそびやかした。
「さっきおまえを仕留めていれば、百人を超えていたろうぜ」
「そうか」
 少年は、きつく眉をつりあげた。右足が、重心の均衡をさぐって、じりじりと動く。そして、静止。
「ならば、赦免の余地はない。神の御名を汚さぬためにも、貴様をここで滅するまでだ」
 海鷲は唾を吐き、姿勢を低めて身構えた。
「やれるもんならやってみな。お綺麗な神殿騎士長さまよ」
 合図の声があがった。それに呼応するかのように、強い風が吹き、二つの船は揺りかごのように弄ばれた。
 ゾルドモードは、にやりと笑ったまま、しばらく微動だにしなかった。安定の悪い高い姿勢をとったセル=ラトクの平衡が、荒っぽい海の歓待に耐えきれなくなるのを、じっと待っているかのようだった。
 セル=ラトクは不動を保つことに神経を集中させる。それは、想像を超える難事だった。
 船長が止めたのも無理はない。敵と、揺れ動く足許を、同時に相手にせねばならないのだ。勝負が長引けば長引くほど、慣れていないこちらが不利になる。
 セル=ラトクは腹を決めた。自分から踏み込む。左足で板を鳴らし、海鷲に斬りかかる。
 ゾルドモードは笑みを深くした。彼も動く。
 一瞬にして、片刃の剣がぶつかりあい、甲高い音をたてた。
 海賊はすばやく手首をかえし、騎士長の剣を巻き取ろうとする。セル=ラトクはそれをさせない。剣身をはじいて後ずさる。ゾルドモードが追う。
 前進してくる敵に向かって、セル=ラトクは猛烈な刺突を放った。ゾルドモードは、それがあらかじめわかっていたかのような、絶妙の間で避けた。刃をかいくぐって、少年の胴体を急襲する。
「ああっ!」
 船乗りたちから叫びがあがる。絵に描いたような、海賊の勝利の型だった。
「――ッ」
 セル=ラトクは渾身の力で、己を襲う剣撃の軌道に、ローラ・イエルトを割り込ませた。全身が反射神経の塊のような、この少年だからこそ可能なことだった。
 海賊の一撃は、予想以上に強烈だった。攻撃を押し返しながら、セル=ラトクは歯噛みする。ここぞという一撃に、力を惜しまない。無駄に力を費やさない。……訓練のとおりだ。
 観戦している騎士たちのうち、果たして何人が気づいただろう。今の二人のやりとりは、ラスン神殿に伝わる数ある型のうち、もっとも古いもののひとつ、そのままだった。
 信じたくはないが、認めないわけにはいかない。
 セル=ラトクのなかの戦士の部分が、はっきりと判断を下した。こんな動きができるのは、少なくとも一度は、彼らに同胞と呼ばれたことのあるものだけだ。
 セル=ラトクの防御で、間合いは再びひらいた。たちまちに構えなおし、隙をなくした彼を、ゾルドモードは深追いしない。ゆっくりと慎重に、一合の距離に詰める。
 細い橋のような板の上では、左右への展開は不可能である。自然、間の釣り合いを保つため、セル=ラトクはわずかずつ後退する。
「騎士長!!」
 見習い騎士が発した警告と同時に、彼は、足の裏に丈夫な硬さを感じた。はっとして、思わず顧みる。踵が、海賊船の船縁を踏んでいる。
 賊徒どもが、薄ら笑いを浮かべていた。彼が、この決闘唯一の掟を踏み外すのを、待ち望んでいるのだ。
 彼が足許に気をとられた隙を、海鷲は見逃さない。
 風切り音をまきおこし、ゾルドモードの剣が騎士長を襲った。セル=ラトクは、両手で己の剣を掲げた。とっさのことである。
 重い衝撃とともに、金属と金属が噛み合った。
 ゾルドモードが打ちおろした剣を、自分のそれで受けとめ、セル=ラトクは何とか均衡を崩さないでいる。しかし、鍛えられた海鷲の両の腕が、全体重をかけて彼を圧しひしごうとする。
 剣の腕では知らず、腕力では、年若いセル=ラトクのほうが、圧倒的に分が悪い。ただでさえ、華奢な体格で、同年代の少年たちに比べても、発育がよいとは言えぬ彼だ。充実した、壮年の男の膂力に、正面から対抗できるわけがない。
 膝が崩れ、倒れる、という寸前で、セル=ラトクは突然、身体の力を抜いた。身が沈む。
 彼に被さるかたちのゾルドモードの身も、無論ぐっと沈んだ。……前に。
「!?」
 男の重心が移った瞬間、セル=ラトクはすかさず、相手に足払いをかけた。抵抗力を失ったゾルドモードの両足は、あっさりと板から離れる。
 誰もが落ちた、と思った。
 だが、やはり、海鷲の異名を持つ男だ。ゾルドモードは空中で見苦しく暴れたりはしなかった。踏みとどまるのが無理とわかると、彼は即座に、移った重心に身を任せてみせたのだ。
 足払いの勢いすら利用して、打ち合わせた剣を支点に、彼はセル=ラトクの頭上で一転した。まるで軽業師であった。ゾルドモードは板の端、船の上に突き出したぎりぎりの地点に、爪先で、それこそ鳥のように舞い降りた。
 平衡を取り戻すため、橋の上に片膝をついたセル=ラトクに、男は口笛を吹いた。
至神殿プラセルの老いぼれどもも、目までは衰えちゃいないようだな。さすがに、騎士長と呼ばれるだけのことはある。感心したぜ、坊や」
 純粋な称賛も、この男の口から出るだけで、叩き落としたくなるほどに腹立たしい。
「俺が二年かけて慣れた流儀に、こんなに早く合わせてくるとはな。あの、何とかいう騎士館長は、単なる陸地での打ち合いで終わりだったってのに」
「騎士……、まさか」
 肩越しに振り返るセル=ラトクに、男が笑う。
「向こうから喧嘩を売ってきたんだぜ」
 かつての同胞をその手にかけたとは、とても思えぬ表情だった。
「以前から何かと嗅ぎ回って、うるさい野郎だったからな。ちょうどよかったんで、借りをまとめて返させてもらったのさ。次によこすのは、もう少し静かな奴にしてくれよ」
 憤激が、セル=ラトクの身体を灼いた。
「貴様……! 一度は神に仕えた身でありながら……!!」
「神か」
 海鷲は皮肉げに唇を歪めた。がらりと語調が変わる。
「人はなぜ他者に仕える。己の主を、なにゆえに選ぶ。……見返りを求めるからだ。主に仕えることで、己に何かが与えられると思うからだ。そうでなければ、どうしてかたちもない存在のために、身を捧げようなどと考えるものか」
「違う!!」
 相手の言葉をかき消すように、セル=ラトクは叫んだ。
「それは打算だ。心に、真に信じるものがあるとき、人はすべてを投げ出せる強さを持つ。忠誠や信仰は、己のうちに生まれ、己に還るものだ。おまえの言うような、利己的な計算などでは」
「だが、神は選ぶ。救われるべきものと、救われざるものを。己の気まぐれで、より分けるのが神の仕業だ。そんなものを、なぜ崇めねばならん。曇りない信心と、無償の献身、それを捧げる価値が、どこにあるというのだ」
 底光りのする目で、男は神殿騎士長を見据えた。
「おまえには、わかるまい。……俺は何も求めない。だから何にも仕えない。欲したものは己の力で手に入れる。たとえそれを、世界が悪行と罵ろうとも」
「――!」
 視界が白熱する。
 一挙に詰められた間合いのなかで、二本のローラ・イエルトが、空気を焼きつけるかのように激突した。火花が、額にはねかえり、橋板がきしむ。
 身長差をいかして、ゾルドモードは上からセル=ラトクを攻めたてる。セル=ラトクは下半身を狙う。海賊の打ち込みを騎士長が受け流し、騎士長の突きを海賊がかわす。攻防は激しい。
 そこが揺れ動く海上であることを、セル=ラトクは頭から追い払った。円ではなく、線の動き。それだけを考える。たゆまぬ修練で培ってきた、己の足運びを信じるのだ。
 騎士長の剣撃に、鋭さが増した。集中の比重が、立ち会いそのものに多く傾いた分、切っ先の通る軌跡の選択が緻密になる。常人なら隙とも思えないような隙を、ためらいもなく突いてゆく。
 受け太刀に回ったゾルドモードは、恐れげもない軽快な足取りで後退する。飾り気もなく、薄ら汚れた栄光の刃は、その境遇を恨むでもなく、忠実に主に応えた。攻撃を、ひとつ残らずはじき返して、海賊が両足に力を込めた。
 跳ぶ気だ。しかし、後はない。
 海鷲は宙に舞った。横っ飛びに、距離も測らず、飛びあがったその姿は、潮風に乗った怪鳥のようだった。彼は熟練の距離感で、足許も見ずに、一ガゼル離れたもうひとつの板の上に着地した。
 セル=ラトクが気づいたとき、ゾルドモードの右手は後ろに回っていた。ローラ・イエルトは左手に移っている。彼がその理由を理解するよりもわずかに、男の手首がしなるのが早い。
 空を切って、幾筋かの光がセル=ラトクを襲った。投擲とうてき用の、指ほどの細さの短剣であると、知覚する間はなかった。彼がローラ・イエルトを掲げることができたのは、ただ戦士としての勘が、意志を貫いて働いたからにすぎない。
 三本が、剣の平にあたって跳ねかえった。だが同時に、耳の下を何かがかすめた。はじけた金具が頬を打つ。マントが外れ、風にあおられ舞いあがる。
 浅い痛み。短剣は、マントの留め金の下を、えぐるように飛んでいったのだ。ラスンの黄色の騎士服が裂け、セル=ラトクの、この日初めての血が流れた。
 油断をした。かすり傷ではあったが、セル=ラトクの思考はかすかに、乱れた。隠し武器に気が回らなかったとは。決して負けまいと思うあまり、度を失っていたのか。
 ゾルドモードの右手は、再び腰帯に回っている。
 男は、投げものの腕もかなりのものであった。この至近距離で、彼が標的を外すことを願うなど、甘い期待というものだろう。セル=ラトクは左右に避けるしかない。だがこの狭い板の上で、どこまでそうしていられる?
 決断は一瞬だった。男の腕が閃く前に、少年は踏み切った。板を蹴って、果てしのない青を、海を跳び越える。
「ああっ!?」
 度肝を抜かれた、船長や、船員たちが、半ば悲鳴に近い声を発した。セル=ラトクは一点を見つめる。目標に向かって、間違いなく着地できるよう、身体をその意思の塊に変える。
 青が、視界いっぱいに広がるようだった。
 目を奪われるな。セル=ラトクの瞳に、驚愕に抗いきれなかった海鷲の顔が映る。
 そうだ。奴のところへ。我が敵の許へ、神よ導き給え。
 ゾルドモードの右手に、セル=ラトクは見事に降り立った。男の剣はいまだ左手にある。指に挟んだ短剣では、騎士剣と渡り合えるはずもない。そして持ち替える余裕を、セル=ラトクがみすみす与えるはずも、また。
 歓声。
 ゾルドモードが、遅れながらも左手で防御にでる。しかしセル=ラトクの一撃は、無慈悲なほどに速い。
 そのときである。
 不意の衝撃が、二隻の船を襲った。大地がねじれたかのような荒々しい揺れが、彼らを掴み、巨大な力で振り回した。
 波であった。急に強まった風が、蒼海を駆け、絨毯をめくりあげるようにして海面を暴れさせたのだ。
 セル=ラトクは、後ろに投げ出された。気味の悪い浮遊感が首筋を撫でる。両足が板から離れ駆け、彼は必死で地面を探した。一度は空をかいた爪先が、板の感触を探り当てる。彼は辛うじてその場に膝をついた。
 ゾルドモードは、瞬間後ろにのけぞったものの、ぐっと足に力を込めて、この荒れを御してみせた。まるで、海が自らの意志で彼を助けたかのようであった。天秤の梁のように振れる橋の上を、確かな足どりで前進する。
 セル=ラトクは立とうとはしなかった。立てなかったのだ。低い姿勢をとっていてさえ、振り落とされてしまいそうだった。彼にできたのは、せいぜい片手を離すことだけだった。それも、剣を持つ右手には、望むべくもない。
 慎重に近づいてきたゾルドモードが、セル=ラトクの眼前に立った。剣を振り上げ、海鷲は、笑おうとした。それは、もはや動かざる勝利の笑みであった。
 だが、寸前で、男の顔が凍りついた。
 波音に紛れて、彼の耳は、セル=ラトクの美しい呟きの声を聞き取ったのだ。
 ――我が願い聞き届け、授け給え、尊き息吹を。
 騎士長は目を上げ、握り合わせていた指をひらいた。編みあげられた祈りの言葉が、解き放たれる。
 最後の一言を少年の唇が紡ぎ終えるのを、ゾルドモードは時が止まったように見守った。
「……神よ、御加護をローラ・エイメン
 どっ、と空気が海賊に向かって押し寄せた。不可視の力が、男を包み込み、次の瞬間、凄まじい音をたててはじきとばした。
 風。逆巻く激流のような、風が、海に負けじと荒れ狂っていた。その流れを、力を、制し操っているのは、決闘場にひざまずいたラスン神殿騎士長の掌であった。
「ぐっ……!」
 ゾルドモードが、己が船の帆柱に叩きつけられる。居合わせた者たちはざわめいた。勝利者は、最後まで板の上に残った者。
 セル=ラトクは拳を握り、立ち上がった。
「セル=ラトクさまの……騎士長の勝ちだ!!」
 騎士も船乗りも、一緒になってわいた。
 吹き飛ばされたゾルドモードは、打ちつけた頭を二、三度振ると、長身を起こした。まさに船の守護者として、立ちはだかるように板上にとどまるセル=ラトクを見、口許を歪める。
「神殿騎士長の法術を警戒しなかったとは……俺も間が抜けたもんだぜ」
 自嘲から一転、声を張り上げる。
「この勝負は、俺の負けだ。認めよう。ここは、大人しく退いてやるぜ」
 セル=ラトクは厳しい目で海賊を見下ろす。
「では、約束通り武器を捨て、投降してもらおう」
「……さて、な」
 海鷲ゾルディはのそのそときざはしまでやってきた。彼は、ひとつ溜息をつくと――ローラ・イエルトを振りかざした!
「!?」
 セル=ラトクは後ろも見ずに跳びすさった。その彼を、自然ならざる風圧が追い討つ。破砕音が響き、粉々になった木屑が吹きあがった。
 騎士剣に込められた力を、瞬時に引き出したゾルドモードの一閃が、二枚の板を打ち砕き、波を割って激しい水柱を生みだしたのだ。
 間一髪、その不意打ちを逃れ、甲板に転がり落ちるセル=ラトクの身体を、寸前で誰かが受けとめた。ヴォルクロードだった。
 副長の大きな手に支えられながら、あらゆる束縛を断ち切りあっという間に離れていく海賊船に向かって、セル=ラトクは叫んだ。それは、ほとんど怒号と化していた。
「貴様!! 約束を違えるのか!!」
 遠ざかる船の上、海鷲のゾルディは、騎士長の憤慨に哄笑で応えた。
「勝負をつけようとは言ったが、降伏するとも何ともおれは言った覚えはないぜ! よく覚えておくんだな坊や。教典の教えだ、騎士の魂(エイル・ディ・タート)だってのが、どれだけくだらないものかってのを」
 すべての帆があがり、風をはらんで、海賊船は最大速力で海上を疾走していった。船影が小さくなり、乗員の顔も見えなくなる。
 セル=ラトクは歯噛みした。普段の彼からは想像もつかない形相であった。気圧されて近づくこともできない人々に、叩きつけるようにして彼は怒鳴った。
「終え! 今すぐ、あの船を追走するんだ!!」
「ま、待ってくださいセル=ラトクさま」
 船長が、燃えすぎた焚き火を怖れるように諸手を挙げる。
「とても無理です。ゾルディの船は、逃げ回る商船を確実に追いつめるための快速船です。荷を積んだ貨物船では、逆立ちしたって追いつけません」
「それなら小船をおろしてくれ。術を使えば追いつける。奴を……奴をこのまま、野放しにしてはおけない!!」
 完全にいきりたち、抜き身の剣に誓いかねない騎士長の腕を、副長が制した。
「落ち着いてください、閣下」
「放せ、ヴォルクロード!」
「いいえ、放しません。あなたがローラ・イエルトを鞘にしまってここから離れないかぎり、縛り上げてでも大人しくしていただきます」
「……!!」
 断固とした口調で羽交い締めにする副長を、セル=ラトクは噛みつくような目で睨みつけた。
「ヴォルクロード、おまえは、知っていたんだな」
「……」
「『最後の一振り』の行方を知っていて、今まで黙って放置していたんだな。答えろ、ヴォルクロード!!」
「……ええ、知っておりました。当時は、一部で相当の噂になりましたからね」
 すっかり青ざめた人々が見守るなか、ヴォルクロードはひらきなおっていた。
「これがどういうことかわかっているのか? あの男は……神殿の秘宝を盗み出し私有したあげく、あまつさえ……」
 セル=ラトクは、怒りのあまり白くなった唇を噛む。
「その力を、悪事に利用している。人に対して使うことを禁じられた貸与剣の技で、人を殺め続けているんだぞ」
「それでも……」
 ヴォルクロードの口調が、溜息の揺れを帯びた。
「たとえそれでも、あなたを行かせるわけにはいかないのですよ」
「なぜなんだ」
 セル=ラトクは、抗う力を緩めた。ヴォルクロードはしばらく沈黙する。やがて、低くひそめた声で話し出した。
「以前、至神殿であなたがこのことを知りたがったとき、真実を太陽神ライファラスの掌にさらした者は一人もいなかった。……六柱神殿では、表沙汰にしてはならないと厳命された出来事だったからです」
「……」
「十年前、神殿騎士ゾルドモードは禁を犯して神殿を抜け、騎士剣を持ち去りました。理由はわかりません。背信者であるゾルドモードには、ラグ・ルドウトが送り込まれました」
 思わず、セル=ラトクは副長を振り返った。
 ラグ・ルドウト。……〈灰色十字〉と呼ばれるそれは、至神殿直属の機関である。聖職者が犯した大罪に関する刑罰の執行人。彼らが行う罰はただの三つだ。
 資格の剥奪、加護の剥奪。
 そして……生命の剥奪。
「刑罰の完了を報告に戻った者は、一人としていなかったといいます。そして、自ら願い出たある騎士が、奴の後を追いました」
「……」
「現在空剣である貸与剣の所持者であり、ゾルドモードの……修行仲間でもあったその騎士は、奴に闘いを挑み……。近くのラスン神殿に、貸与剣と棺が届けられました。以来、奴は神殿の手の及ばない海に逃れ、陸の上から姿を消しました」
「……」
「それから十年近く、ラスン神殿では騎士剣の貸与は行われませんでした。どの神殿でも、空剣のある期間など長くありません。しかし、ラスン神殿にはその間、一人の拝領者もいなかったのです」
 ヴォルクロードは、言葉を、一句ずつ区切るようにして押し出した。
「あなたは、そのラスン神殿で唯一、凍結された騎士剣の貸与を、受けた人間なのです。このことの意味が、わかりますか」
「……」
「あなたは我々の、柱なのです」
 からかいの響きも皮肉の棘も、ヴォルクロードの声にはない。
「あなたが騎士長としてしなければならないことは多く、あなたの手を必要とする者は大勢います。奴を追うために、自らの進む道を曲げるのは……それらのすべてを、見捨てることです」
 ヴォルクロードの言葉は、セル=ラトクの心に、静かな楔を打ち込んだ。冷静さが戻ってくる。
 自らの欲のために、と奴は言った。そのために、他の何ものをも顧みないと。そんなあの男を、許すことなどできない。
 だが……。
 目を閉じた少年の気持ちを読みとったように、ヴォルクロードが諭した。彼らしくもない……穏やかな口振りだった。
「いつか、あなたの進む道の上に、再びあの男が現れたときに――晴らせばいいでしょう、その思いは」
「……そうだな」
 セル=ラトクは呟く。
 促すと、副長はようやく彼を解放した。セル=ラトクは大きく息を吸って、男の長身を見上げる。
「……すまない、軽率だった」
「まあ、たまにはいいでしょう」
 しかめつらしい呆れ顔をつくって、ヴォルクロードが言う。セル=ラトクは、ようやく頬の筋肉の強張りを、解くことができた。傷ついた左肩を押さえて、彼は言った。
「しかし、きみは馬鹿力だな。肩が外れるかと思った。今度羽交い締めにするときには、もう少し手加減してくれないか」
「あなたが丸腰のときならば、考えましょう」
 ヴォルクロードは唇の端をつり上げた。
「剣を握ったあなたに手加減をするとどうなるか。あなたの部下になることが決まったあのときに、嫌というほど思い知らされましたからね」
 セル=ラトクは笑った。笑って、ローラ・イエルトを鞘に収めた。
 ほっとした表情になった船長たちが近づいてくる。
 心に限りをつけるように、セル=ラトクは言った。旅はまだ、途中である。
「行こう、船長。我々の目指す街、モルトテルムへ」






 至神殿プラセルの記録室は、膨大な量の資料と書類に埋もれている。
 ラルギネア北のこの聖地に戻ってから、セル=ラトクは十年前の記録を探した。
 求める名前は、すぐに見つかった。
『二六五七年、十の月二十六日。ラスン神殿騎士ゾルドモード、使命中不慮の事故により、死亡』
 記されているのは、それだけだった。神殿の記録は、特に断りがないかぎり、神学歴で書かれている。王国歴で三七七年、正確には十一年前の出来事であった。
 続いて彼は、別の項を探した。翌年の記録に、それはあった。
『二六五八年、初の月十二日。ラスン神殿騎士〈拝領者〉エイブリット、殉死』
 以降セル=ラトク自身の名前があらわれるまで、〈拝領者〉の文字は、紙面にはない。
 彼は記録を閉じた。この、たった数行の文章の間にいったい何が起こったのか、行われたのか。推測するための手掛かりすら、そこにはなかった。
 存在を、抹消された男。己の道を曲げた拝領者。すべてを沈黙のうちに眠らせた神殿。
 その確執は、セル=ラトクにはわからない。
 それでよいのだろう、と彼は思った。彼には、信念があるだけだ。ヴォルクロードの言葉が蘇る。
(いつか、あなたの進む道の上に、再びあの男が現れたときに――)
 ローラ・イエルトの柄を握りしめ、セル=ラトクは誓った。そのときには、必ず……。
 金属の冷たさは変わらない。そう、たとえどんな人物が自らの前に存在したとしても、変わりはしないのだ。
 彼が彼自身であることには、何も。
 主の手のなかで、騎士剣は静かな威厳を漂わせている。それを携えて、彼は記録室を後にした。前庭で、ヴォルクロードが待っている。
 セル=ラトクは螺旋階段を急いだ。
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