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ウェブロスに帰ってきたエクレイドは、一人で出掛けた後にはいつもそうするように、膨大な蔵書を誇る書庫に顔を出した。
書庫では、予想通りの人物が本の頁をめくっていた。
「
神殿長から、大方のことは伺っていた。……御苦労だったな、エクレイド」
リンドグレンは顔を上げて、飾りのない言葉で彼女を労った。
エクレイドは書物の砦を崩さぬよう注意して、相棒の青年騎士の側へ寄った。彼は空いている椅子を引いて、彼女の座る場所を確保してくれた。
「調べ物の方の収穫はどうだった?」
「それなりの益はあった。前王国時代の興味深い記録書も発見できたことだし……」
彼は難解な古語の間に戻しかけた視線を、ふと、エクレイドの面上に止めた。
「……君の方は、大変だったようだな?」
「まあね」
肩の怪我を目敏く見抜いた相棒に、彼女は首を傾けてみせた。
穏やかに促され、エクレイドは後ろ向きに椅子に腰掛た。彼の不在の間に起こった事件について話すためだ。今回の使命にまつわる一連の話を、共通の話題として、この聡明な相棒の耳にいれておきたいと思っていたのだった。
リンドグレンは沈黙を守り、彼女の説明に耳を傾けた。
ブラッソンの死についてまで語り終えると、彼女は彼にこう尋ねた。
「リンドグレン。きみは、リチアルドが拝領者だったことを知っていたかい?」
「ああ」
あっさりと、青年騎士は頷いた。予想外の答えだったので、エクレイドは両目を瞠った。周囲とあらゆる交渉を持つのが苦手な彼が、知っていたとは。
リンドグレンはそんな彼女の内心を読み取ったように、口元を緩めた。
「十五年前のことだろう。私は、もう二十年以上ウェブロスにいる」
「ああ、そうだったっけ」
まだほんの子供の頃から、彼は恐ろしいほどの記憶力の持ち主としても有名である。実際己の目で見ていたのなら、不思議はない。
「だが、彼が騎士剣を返上した経緯までは……」
思慮深く灰色の双眸を細め、リンドグレンは言った。
エクレイドは盗掘者たちの拠点からの帰路、リチアルドが話してくれたことを思い返した。
(……私とルーテッドは、仲間であり、友人だった。ちょうど、きみとリンドグレンのような。あのとき、我々はとある貴族に旧神代の遺物を売りつけた盗掘者を追っていた)
罪人たちを捕縛し、拠点の捜索に取り掛かっている部下たちを監督しながら、騎士長は言ったのだった。
騎士たちの被害は彼らを含めて負傷が三名、修練者に一名。いずれも軽傷であった。運び出されていく盗掘者の死体を眺めつつ、彼は手当てを終えた左手を撫でていた。
「そのうちの一人が、ブラッソンだった。我々は奴を追いつめた。奴は抵抗し、私がそれを迎え撃った。私は奴に深い傷を負わせた。そして、残った犯罪者たちを追おうとした」
騎士長の気高い眉根が寄せられた。しかし声音は、平静のままである。
「ルーテッドは私を引き止めた。止めを刺すべきだと言って。だが、私はそうしなかった。放っておいても、奴は死ぬと思った。それ以上に、無抵抗な瀕死の男に剣を振り下ろすことを、私は……ためらったのだ」
次の一言を口にするまでに、リチアルドは長い長い時間を必要とした。
しかし遂に、彼は決定的なその言葉を吐き出した。
「彼は死んだ。……一瞬の出来事だった。もはや動けまいと思っていたブラッソンの短剣が、ルーテッドの喉を貫いたのだ。奴はそのまま、側の崖から身を躍らせた。ルーテッドは即死だった」
騎士長は溜め息とともに面を伏せた。
「私には分かっていたはずだった。奴らがどれだけ狡猾で、油断ならない人間なのか。……分かっていたはずだったのに」
果てしのない悔恨が、彼の表情を歪めた。
「甘かったのだよ。私は」
「……それで、騎士剣を返上したんですか、あなたは」
エクレイドの問いに、リチアルドは微かに頭を上下させた。
「
我が敵を赦し給えの名は、私には重すぎる。私は奴を赦すことはできなかった……自分自身をすら、赦せはしなかったのだから」
彼は、儚いともいえる微笑を湛えて、エクレイドを見遣った。その眼差しは、先達が、己の後を歩むものに与えるべきありとあらゆる慈愛に満ちていた。弟を導く兄のように、騎士長は言った。
「きみは、恥じぬように生きたまえ。その剣に恥じぬよう。そして……己の良心に、恥じぬように」
エクレイドは、騎士長リチアルドの姿を見詰めた。
そこにいるのは、過去の過ちを自分の努力で克服しながら、烙印のように胸に刻んで忘れることのない、強く、厳しい……高潔な、一人の男であった。
彼女は跪いた。騎士長の左手をとり、その指の節に心からの敬意をこめて口付けをした。公式の場で伝統とされている、騎士たちの長兄たる神殿騎士長に対する礼だ。
当人を前にして、同年の友人のように名を呼んで憚らない彼女だが、このときは、自分の行動には大きな価値があると思った。リチアルドには、この敬礼を受ける価値がある。
「あなたは我々の誇りです、騎士長リチアルド」
騎士長は女騎士の行動に目を丸くした。
やがて、彼は万感を封じ込めるように瞼を閉じた。囁きは静かだった。
「……ありがとう、タート。……エクレイド」
――エクレイドは話し終えると、椅子の背もたれに覆いかぶさった。
相変わらず、どんな感慨を抱いたのか表にしないリンドグレンを横目に、自分の感想を付け加える。
「まあ、リチアルドが騎士位を捨てないでくれてよかったと思うよ。そうしたら、彼は今、我々の騎士長にはなっていないはずなんだからね」
リンドグレンは、彼女の述懐に対して落ち着き払った返答をした。
「そうだな。我々は、神と、そしてファネロンに感謝すべきだ」
意外な名前を挙げられて、エクレイドは怪訝な気持ちで頭をもたげた。
青年騎士は、一瞥の必要もなく、彼女の疑問を察したらしい。淡々と説明した。
「閣下は騎士剣を返上する際、きみが案じたように騎士位も同時に手放そうとしたのだ。それを止めたのが、かつて閣下の上役にあたられたファネロン・セイナルだ。ファネロンに教え諭され、閣下は騎士を辞めることを翻意されたらしい」
「へえ、初耳だな」
素直に感心した途端、エクレイドの頭に一つの矛盾が引っ掛かった。彼女は身を乗り出した。
「ちょっと待ってくれ。上役って言ったね? だけどファネロンは……」
高位神官、つまり、騎士ではないのだ。
自然の摂理を語るように、リンドグレンは告げた。
「ファネロンはウェブロスで神殿長の位に就かれる以前、神殿騎士だったのだ。貸与剣を授かることは、おありにならなかったようだが」
身体をのけぞらせて、エクレイドは派手な音をたてて吐息した。
世の中というのは、まったく、外からでは分からないことが多すぎる。
「それで、
件のタート・ルーテッドの子息はどうした? 彼の誤解は解けたのだろう?」
リンドグレンが問うた。
エクレイドは我に返って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。一つくらい、彼女が彼を驚かせても、神はお許しくださるだろう。
「それはね、リンドグレン。いずれそのうちに、分かると思うよ」
盗掘者集団の拠点襲撃計画が無事終わってから数日。ウェブロス大神殿は、一人の訪問者を迎えることになった。
ラキリムと名乗ったその青年は、帯びてきた剣を決まり通り門衛の騎士に預け、騎士館へとやってきた。
「それでは、ラキリム殿。あなたの意思に、偽りはありませんか」
熟練の騎士に問われ、彼はしっかりと頷いた。
「はい。ありません」
「それでは、ウェブロス神殿はあなたを騎士見習い修練者として迎えましょう。今日このときから、騎士の全てはあなたの兄、神殿のすべての者は、あなたの兄弟です」
騎士はそこで一つ間をおき、安心させるように彼に笑いかけた。
「あなたの年で修練者となるのは大変でしょうが、ぜひ頑張ってください。我々も、無論ライファラスも、より良い騎士を育てるための手助けを惜しみませんよ」
彼らは祭壇の前に歩み出た。騎士がラキリムを促した。
「さあ、誓いの言葉を」
ラキリムは、離れた場所で己の挙措を見守る騎士長を一度、顧みた。神の御前に膝をつき、彼は誓った。
「この身と、この魂を、ライファラスに捧げることを誓います。私のすべてと、そして、神の忠実な
僕であった父、神殿騎士ルーテッドの誇りのすべてにかけて」
その瞬間、ウェブロス神殿に、新しい騎士見習いが誕生した。
彼は騎士長リチアルドに、恭順の礼を払った。彼の尊敬する父親が、友と呼んだ誠実な男に。
失われた騎士の生命は、その魂ごと、息子に受け継がれたのだった。ほかのいくつもの親子が、そうして記憶と愛情を順々に譲り渡していったように。
新しい出発は祝福を受け、今、始まったのである。