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……困ったことになったな。
豪奢に仕立てられた馬車の中で、エクレイドは悩んでいた。
がたがたと揺れるその箱は、彼女を閉じこめたまま、決闘場に指定された丘へと向かっている。
きちんと櫛目の通った、明るい茶色の髪に、榛色の眸。色具合は典型的なラルギネア人である彼女だが、その容姿は、標準よりずっと整っていて、おまけにとても中性的だ。
だけでなく、剣を帯び、男物の脚衣に包まれた脚を無造作に組む姿は堂に入りすぎていて、一目で女性と見分けられるものなどいないだろう。
――ある意味、今回の事件の原因となったのは、この凛々しすぎる外見なのだ。
エクレイドは溜息をついた。胸に飾った薄い絹の手袋がそよぐ。それは高貴な人々の使う、『名誉の代弁者』――決闘代理人の証であった。
世俗の闘争には介入しない、
神殿騎士の身であることを誓ったエクレイドである。
その彼女が、ライファラス騎士たることを示す赤い
騎士服を身にまとい、手袋の花を掲げてこの丘を登ってゆくのには、それなりの事情があったのだ。
四の月某日、ウェブロス太陽神大神殿に属するエクレイドは、王国伯爵、ダモデイル・モンソールを訪ねて、その居城マンサスへと向かった。
神殿騎士が私用で神殿を離れることはまずない。この時も、騎士長リチアルドの決定による正式な派遣であった。
が、実際にその指令が下るまでのいきさつは、少々いつもとは異なっている。
「本来ならば、きみにあてるような務めではないのだが……」
リチアルドはそう前置きして、エクレイドに用向きを伝えた。過日マンサス伯爵家よりなされた寄進に対する、返礼の使節というのが、それであった。
「むこうが、きみを是非にと言うのだ。無論、このような類の指名に、必ずしも従う必要はないが……心当たりはないか?」
篤実な騎士長は、剣をとる者にはつきものの怨恨を案じたようである。エクレイドは溜息をついて首を振った。否定ではない。呆れていたのだ。
「母の従兄です……困った人だ」
エクレイドは王国貴族の古い家柄の出身で、父親との意見の相違から、実質出奔という形で聖籍に入った経歴の持ち主だった。
神殿に入ったときに、捨てたとまでは言わないが、俗世的な家名とは縁を切ったつもりである。心の中でどう思っていても、もう外の世界の血縁のもとへ、家族として入ってゆくことはできない。本人がそれを充分承知していても、しかし周囲の人間の方は、なかなか理解してはくれないものだ。
「多分、物珍しさで、家をとびだして神殿騎士になった変わり者の顔を拝みたいとでもいうんでしょう。あの人とはまだわたしがときどき、絹の裳裾を引きずっていた頃に一度、お会いしたきりでしたから」
「ふむ。それで、どうする?」
「行きますよ。下手に断ると、代わりのものが何を言われるのか、かわいそうですからね」
こうして、エクレイドはウェブロス大神殿を出発し、五日かけて、西の方マンサスの城門を潜ることになったのである。
伯爵ダモデイルは、エクレイドの中に残っている記憶と、さほど変わらない姿で彼女を迎えた。
年の頃は騎士長リチアルドとそう違わぬ五十がらみ。髪も髭も見事な灰色で、それなりに優美だった彼女の母親とは似ても似つかない。つつけば転がりそうな体型といい、狸のようだ。
館の客間に通された彼女に、ダモデイルは満面の笑みを浮かべて両手を広げた。親族の娘への対応でもなく、無論神殿の使者への礼でもなく、まるで己の娘婿の機嫌をとる父親のようなその態度に、エクレイドは多いに面喰った。
「おお、本当にエクレイドか? 何と、どこから見ても立派な騎士殿ではないか。噂にはきいていたが、まさかこれほどの騎士ぶりとはな」
肩やら腕やらを遠慮なく叩かれながら、どうせろくな噂ではなかったのだろう、と彼女は思った。貴族の
暇つぶしなど、大抵の場合、くだらないことばかりなのだ。
「お久しぶりです、ダモデイル卿。このたびは当神殿への御寄進、我らが
神殿長セイナルに代わり、御礼申し上げます。あなたに
太陽神の光あれ」
一歩引いて述べた型通りの挨拶も、相手に対する抑止力にはならなかった。エクレイドは目の回るような勢いで立たされ、マンサス伯の向かいの席に座らされ、たちまちのうちに酒杯を手にする破目になったのである。
「時にエクレイド、アミーナのことは覚えておるかね?」
ティーク産の高級葡萄酒が二本ほど空になった頃、ダモデイル卿が不意に切り出した。平静をよそおった表情と、少々早口に過ぎた口調から、エクレイドはこれが自分をここへ招いた理由の本題であることを直感した。
「アミーナ……。伯爵の御令嬢の御名前でしたね、たしか」
「そう、そうなのだ」
ダモデイルは喜々として女騎士の杯を満たした。
「儂の一番下の子供でな。今年で十五になるのだが、妻に似て何とも愛らしい娘に育っておる」
「はあ」
「そのアミーナがな、明後日開かれる当家の舞踏会で、正式に紹介されるのだ」
「ははあ」
エクレイドは卿の言わんとするところを、何となく察した。ダモデイル卿は、ずいと卓上に身をのりだして、彼女を見つめた。
「そこでだ、エクレイド、そなたにアミーナの付添人を頼みたいのだ」
「やっぱり」
と、エクレイドは心の中で呟いた。
溺愛する娘の一生一度の晴舞台のために、家柄格式、地位身分整った若者を捜しあげたのだろう。貴婦人の披露目の席での付添人は、そのまま女性の格に関わるから、ダモデイルが必死になるのも判らないでもない。
しかし、だからこそ、女性の父親や兄、親族の男性が務めるのが最も無難であるとされており、全く知らない相手を頼むより、女性の方も安心できる。
そう言うと、ダモデイルは豪快に笑い、
「いやな、儂もあれの兄たちも、踊りはあまり得意でなくてな。アミーナはとても、軽やかに踊るのだが」
あの子に恥をかかせたくはないのだよ、と続けながら、ダモデイルは手を打った。
始めから、お膳立ては整っていたのだ。
奥の扉から、年頃のひとりの娘がしずしずと歩み出て、期待と請願をこめた眼差しを女騎士に送った。こういった申し出を断られることが、女性にとって手酷い恥辱になることを、エクレイドは知っていた。
半ば諦めに近い気持ちで、彼女は尋ねた。
「ダモデイル卿、本気でわたしを、令嬢の初めてのダンスの相手にするつもりですか?」
「そなたなら申し分ない。上面だけで中身の伴わない甘ったれどもに、アミーナの初舞台を任せるわけにはいかん」
「よもや忘れてはおられないでしょうが、わたしは女ですよ。伯爵はともかく、本人はどうなんです? あなたは構わないんですか、アミーナ?」
エクレイドは愛くるしい貴婦人候補を見遣った。アミーナは、凛々しい騎士姿の若者を凝視していた目を伏せて、ぱっと頬を赤らめた。
「ええ、光栄ですわ、
騎士殿」
エクレイドは天を仰いだ。
アミーナは濃い鳶色の巻き毛と瞳をもった、小柄な娘だった。
父親の言う通りに、何とも愛らしい少女であったが、溺愛故の過保護ぶりのせいか、年齢の割に世を知らず、まだ頼りのないところがある。
だから自分だったのだろうと、エクレイドは思った。娘が何より大事なダモデイル卿は、まだまだ純真なこの少女の御披露目を、華やかなものにしてやりたかったが、娘の夢みる心を満たすような若者を、傍に近付けるは嫌だったのだ。
エクレイドは、神殿騎士の平時の正装である騎士服をまとって舞踏会に臨んだ。ライファラスの神殿色に準じた赤いマントと丈長の上着、革帯にまきつけたライファラス騎士の身分を証すメダル、それに革製の半長靴といういでたちである。
世俗の騎士のような格好をすればいろいろと詮索されてしまうだろうし、モンソール家との私的なつながりを誤解されても困る。こういう時は、厳然と公の顔を押し通すべきなのだ。相手が神殿騎士となれば、無用の厄介事を持ち出そうとするものもいまい。
腰には、ダモデイルの用意した儀礼用の華奢な剣が提げられている。付添人は、婦人の名誉の擁護者でもあるのだ。もっとも今回は、アミーナを侮辱しようとする者がいれば、こんなものよりもマントの法印がそれを思いとどまらせる役に立つだろう。
会場にむかう前に、アミーナの元から重い小箱が届いた。
貴婦人と付添人は、一目でそれと判るような揃いの装飾品を身につける習わしだ。中にあったのは、黄金の台座に大きなルビー紅玉のはまったブローチだった。
マントの止め金にそれをつけかえると、エクレイドは鏡を眺めて一人、肩をすくめた。
控えの間では、その日の主役が、美しく髪を飾り終えたところだった。
アミーナは、首の詰まった緑のドレスを、慎ましげに着こなしていた。髪はきっちりと編みあげて、真珠を散りばめた飾り紐をめぐらせてある。胸許には、エクレイドと同じ、紅玉のブローチが輝いていた。
女騎士が入室すると、少女はうっとりと彼女を見つめた。
明言したはずの彼女の性別を、記憶しているのかどうか非常に疑わしい。
「とても良く御似合いですわ、タート・エクレイド」
「一応、商売道具ですからね。あなたこそ、御似合いですよ、アミーナ」
「そんな……あ、ありがとうございます」
面を薔薇色に染めた少女に手を差し伸べ、エクレイドは付添人としての仕事を開始した。
大広間には、すでに伯爵お抱えの楽隊や召使い、そしてこの舞踏会の招待客たちが居並んでいた。エクレイドの第一の役目は、アミーナをそこへ案内することだった。
楽隊に合図が行き渡ると、それまで流れていた曲がはたと止み、盛大なファンファーレに変わる。
エクレイドは、アミーナの手をとって、貴族たちの空けた空間の中を、幾つもの視線にさらされながら、ゆっくりと進んでいった。
ほう、という称賛の声や、囁き声が織りなすざわめき。その中を悠々と泳ぐようにして、二人は待ち構えているダモデイルのもとへとたどり着いた。
「みなさん、これが、我が末娘アミーナです。アミーナ、御挨拶を」
少女が形通りの言葉を述べ、招待客は次々に祝辞と返礼を口にしはじめた。
こちらが何々子爵誰々、そちらが何々男爵夫人、あっちにいるのが何処そこの貴公子……といった調子で、延々と紹介が続けられる。エクレイドはその間、いかにも優雅に、擁護すべき女性の傍に立っていなければならないのであった。
「マンサス伯、こちらの方は何処の騎士さまでいらっしゃいますの?」
何とか子爵夫人が言葉以上の興味を視線に込めて、ダモデイルに問いかけた。
「おお、この騎士殿は、ウェブロス太陽神神殿のタート・エクレイドだ。此度、アミーナの付添人を引き受けていただいたのですよ」
「まぁ、神殿騎士殿がどういういきさつで御令嬢の付添人に?」
「先日ウェブロスにちょっとした寄進を致しましてな。その返礼の使者に来られたのがタート・エクレイドという訳で……」
「ダモデイル卿の信仰心に対する、神殿からの感謝と祝福の代わりになれば、と思いましてね」
にっこり笑って、エクレイドが言葉を引き継いだ。
「まぁ……神殿騎士といえば、四六時中祈ってばかりで目を虚空にしか向けていない、お堅い方々ばかりと思っていましたのに。……アミーナ嬢がうらやましゅうございますわ」
「全く……」
「ははは……」
媚を含んだ言葉に、騎士は半分以上本気の笑声で応えた。貴婦人たちの言う神殿騎士のイメージは大げさだが正しく、彼女の相棒などは、全くその通りの人物だったからだ。
女性たちは若い騎士の関心をひいたのに気を良くし、素晴らしく機敏かつ滑らかな動きで、彼女をとりかこんだ輪を狭めた。
「どうでしょう、タート、せっかくですもの、わたくしと一曲踊って頂けません?」
「わたくしもお願いしとうございますわ。神に仕える、それもこんなに素敵な方と御一緒できる機会なんて、そうはありませんもの。ね?」
「大変光栄なのですが」
やんわりと言い、エクレイドは逞しい先輩たちに圧倒されているアミーナの手をとった。
「わたしはわたしの貴婦人の、最初の騎士の役目を果たさなければなりません。あなたたち御婦人方の御希望に、わたしが添える踊り手だと思われたら、また声をおかけください」
「そうですわね。タートは、アミーナ様の付添人ですもの。アミーナ様の、最初のダンスのお相手ですものね」
「でも、きっとですよ。きっと、後でお相手くださいましね」
「お願いいたしますわ、アミーナ様」
にこやかに会釈しながら、アミーナを促してエクレイドはひらけた場所に移った。
楽隊は、小さな貴婦人のための最初の曲の準備を終え、彼女らの動きを見守っている。楽隊だけではない。会場の皆が、その日の主役の姿を見つめていた。
アミーナは、幼さの残る頬を紅潮させ、女騎士を仰いだ。
鳶色の瞳は星をうかべたように輝き、喜びと誇りとに満ちていた。
「私、一生忘れませんわ。今日の日のこと」
純粋な物言いが、エクレイドを微笑させた。彼女は神殿仕込みの騎士礼をほどこし、少女の絹手袋に覆われた指の節に口付けした。
「まだ、これからですよアミーナ。居並ぶ人々に、貴女の羽のような軽やかさを見せてさしあげないと。わたしなど、ただの置き物に見えるくらいのね」
曲の始まりを告げる一音が鳴り、踊り手たちはそれぞれの位置に構えた。
軽快な、明るい優雅さで、舞曲の一小節目が流れ出た。
アミーナは素晴らしい踊り手だった。
普段はどちらかというと控え目で、しとやかな少女が、曲に乗って足を運ぶときは、驚くほど堂々と、巧みに動くのだ。エクレイドは特別に上手な踊り手ではなかったが、アミーナにかかれば熟練した紳士であるかのように、ふるまうことができた。例え相手が案山子であっても、心ある者にしたててしまう、そういう不思議な力が、彼女の踊りにはあった。
背筋を伸ばし、しっかりと胸を張って、生き生きと踊るアミーナはこの世の幸福を一身に集めたような輝かしさで、見る者を魅了した。
いつしか衆目は、彼女たちの上に集まっていた。エクレイドは、円舞を、これほど面白いと思ったことはなかった。
曲は、あっという間に終わりに近づいた。
最後の小節と共にアミーナの爪先が止まると、広間のあちこちから押し殺した溜息のような声が洩れた。
アミーナは、女騎士を見上げると、愛らしい顔を晴れやかにほころばせた。エクレイドも、清々しい笑顔をかえした。
「父上の言われたことは、まさしく真実でしたね。本当に、見事だ。わたしときたら、まるで、初めてダンスを習う子供のようでしたよ」
「まぁ、そんなこと」
はにかんだアミーナは、両手を頬に当て、女騎士から目をそらそうとした。
次の瞬間、彼女は驚きに目を瞠って、己の周囲を見回した。招待客の数々が、二人のまわりに押し寄せてきたのであった。
「アミーナ様! とても素敵でしたわ。一体どなたにお習いになりましたの?」
そんな言葉にはじまり、人々は口々にアミーナを誉めそやした。アミーナは群がりくるそれぞれに、礼儀正しく答えていたが、表情の誇らしさは隠しようもなかった。
ダモデイルの心算は、見事叶ったというべきだった。アミーナの初舞台は、人々の心に強い印象を与え、その記憶は、長い間残るだろう。
無事責任を果たしたことに安堵しながら、エクレイドはそっと人の輪を離れた。向こうから、先程彼女に並々ならぬ好意を示していた貴婦人たちが、近づいてくるのがわかったからだった。
「どこへおいでになりますの?」
途端に、気付いたアミーナが問った。不安気な響きが、声にはある。表情を崩さずに、女騎士は言った。
「剣帯の金具が、緩んできたので、直してきます。すぐに戻りますよ」
軽く礼をして、彼女は大股に広間を歩き去った。金具やらベルトやらが緩んでいるというのは、騎士たちのよく使う中座のための言い訳だ。人前で衣服を乱すのは行儀の悪いことだったし、着たこともない人間にとっては、彼女らの制服や甲冑がどのような構造をしているのか、知りようもないことである。多くの神殿騎士たちが、俗界での面倒ごとに備えて、ありもしない場所に幾つものベルトや金具を隠し持っているのであった。そして、エクレイドは有益な伝統には素直に従う人間だった。
ダモデイル卿が、追ってきた。
伯爵は、満面に笑みを浮かべて、エクレイドの元へやってきた。狸のような顔は完全にやにさがり、女騎士の手を取らんばかりだった。
「いや、エクレイド、よくやってくれた。儂の見込んだ通りだ。そなたがもし男であったら、このまま婿にでも迎えたいくらいだぞ」
「大げさですよ、伯爵」
「大げさなものか。そなたのような子をもって、ターラもモンマルト殿も鼻が高かろう」
「両親は……」
苦笑しながら、エクレイドは思った。伯爵は、幸せな人だ。自分の思いと、周囲の人々の思い、それぞれの描く道が、違うことなく重なっている。
「父も母も、わたしにアミーナのようになってほしかったのだと思いますよ。わたしは、家出同然に神殿に入った人間ですから」
「それでも、そなたのことを恥じてはおらんだろう。他人から称賛を受けるような子をもって、それを誇らしく思わぬ親はおらんよ」
「そんなものですかね」
エクレイドは首を傾げながら考えた。父は、頑固な人だったから……。
その時、広間から、複数の悲鳴がきこえた。女性たちの声だった。
一瞬、顔を見合わせ、エクレイドとダモデイルは広間に駆け戻った。習慣的に剣柄に手をかけながら、女騎士は事件の発生場所を探した。
広間の奥に、招待客の喉の渇きを癒すために準備した、召使いの待機した場所がある。そこで、アミーナを取り囲んだ貴婦人の一団が、裏返った声をあげてた。
アミーナは、一人の少年と対峙していた。
身なり良く、立ち姿にも、洗練された雰囲気が漂っている。招待客の貴族の子息の一人であろう。アミーナは、対峙といっても、その少年を前に目を伏せ、何やら困ったようすだった。周囲の貴婦人たちは、そんな彼女の代わりに、あわてふためき騒いでいるらしい
「アミーナ!」
エクレイドは、貴婦人たちをかきわけて、少女の傍に近づいた。
アミーナに対していた少年は、突然現われた騎士を見て、何か言おうと開きかけていた口を噤んだ。眦に不穏なものを宿して、少年は彼女を睨んだ。
「どうしたんです? 何があったんですか」
「あ……タート……」
アミーナは、ほっとしたように表情を和らげた。当惑げに、膝元を指す。
「いえ、それが……」
アミーナの緑色のドレスに、赤い染みが広がっていた。少女と少年の間の床に、杯が転がっている。
「私が、いけないんです。ぼうっとしていたから……」
エクレイドの顔を見て、大分落ち着いてきたらしい。アミーナが、少年を気遣うようにして説明しはじめた。聞けばどうやら、互いによそ見をしていて、ぶつかった拍子に少年が酒杯を落としてしまったと、そんな理由である。エクレイドは息を抜いた。思わず、少女の肩に手をかける。
「よかった、何もなくて。狼藉者でも現われたのかと、肝を冷やしましたよ。……早く、着替えた方がいいですね。染みがとれなくなる」
「え、ええ、タート。……ごめんなさい、コーウェル」
わずかに少年を気にしながら、女騎士に促され、アミーナは退出しようとした。
その背中に、じっと黙っていたコーウェルが、刺々しい声を放った。
「タート……
騎士ね。神に仕えるべき
神殿騎士が、俗界の、こんな席に、何の御用があるものやら」
「コーウェル」
アミーナが、驚いたように振り返った。
「タート・エクレイドは、私の付添人をしてくださっているのよ」
「神をよそにおいて女性に仕えることが、ライファラスの法だとは思えないな」
「神の御前に善良な婦人の名誉を守ることは、聖俗等しく騎士の務めですよ」
はっきりとした敵意を向けてくる少年を、エクレイドはやんわりとかわそうとした。
だが、それがコーウェルの勘にさわったらしい。語気荒く詰め寄ってくる。
「騎士! 神殿騎士は貞節と神への忠誠と清廉を信条とするもののはず。その本分に立ちかえることを忘れ、遊蕩に心を移すような輩を、騎士と呼べるものか……」
「コーウェル!」
甲高い叫びが、少年の言を途切らせた。
エクレイドも、コーウェルも、目を丸くして、背後の少女を見遣った。あのおとなしいアミーナが、大きな鳶色の瞳を激しく怒らせて、エクレイドの前に進み出る。握り合わせた手も、肩も、ぶるぶると震えていた。
「タート・エクレイドは、私のために、ここに残ってくださったのよ。それを、そんなふうに言うなんて。タートは、ライファラスに仕える立派な騎士です。私の名誉にかけて、この方を侮辱させはしないわ!」
それは、誰も思いもよらぬ強さだった。
エクレイドは慌てて、二人の間に割って入ろうとした。
「アミーナ、落ち着いてください。わたしは、別に平気です。彼はちょっとした誤解をしているだけです。少し話をすれば、すぐに判り合えますよ」
同意を求めるように視線を送るエクレイドの思惑に反して、コーウェルは顔面を紅潮させた。真っ向から反論されて、自制心をなくしているのだ。彼は、騎士の言を振り払うように腕を広げた。
「私は、美辞麗句に惑わされたりはしないぞ。剣の脅しにも屈しない。先ほどの言葉を、撤回する気はない。真実を用いる以外の方法で私にそれをさせようというのなら、それは、私に対する侮辱と見倣す!」
「タート・エクレイドは立派な方です。私もそれを、決して撤回しません。取り消して、コーウェル! 付添人への侮辱は、この私への侮辱だわ!!」
コーウェルは、少女の憤りの激しさに、さすがに怯んだようだった。しかし、ここまできて、彼も意地になっているのだろう。噛みしめた歯の隙間から、低く言い切った。
「……撤回はしない」
エクレイドは、己の手を離れて転がりはじめた事態の行く先を、予想しながらも、どうすることもできなかった。止める間もなく、アミーナは、その両手の手袋を外し、コーウェルに向かって叩きつけたのだ。
見守る人々が、あっとどよめいた。
父ダモデイルが唖然とし、エクレイドが目を覆う中、伯爵令嬢アミーナは言った。
「私の名誉の全てを賭けて、あなたに決闘を申し込みます」