昼食後の訓練場で、エクレイドは、思いもよらない相手に出会った。
「リンドグレンじゃないか」
普段なら、この時間には書庫に引きこもっているはずの相棒が、平易な稽古着に着替えて、模擬剣を手にたたずんでいるのだ。
「珍しいな、きみが剣の修練をするなんて。いったいどういう風の吹き回しだい?」
「少し……な」
リンドグレンは思慮深げな目をエクレイドに当て、一瞬で前方へ逸らした。
「たまには、体も動かさなければ、錆びついてしまうだろう」
「へえ」
驚きを隠さずに、彼女は相棒の横顔を見つめた。騎士になって以来、知識と法術の腕を高めることのみに、時間を費やしてきたような男なのだ。
それが、どういう心境の変化だろうと思いつつ、エクレイドは、彼女らしい明快さで考えるのをやめた。滅多にない機会を、無駄にすることはない。
「よし、じゃあ、一緒に型を組もう。この方面のことなら、わたしもきみに有益な助言ができると思うしね」
珍事を遠巻きに眺める同僚たちの間から連れだした相棒と、訓練場の片隅で、エクレイドは向かい合った。リンドグレンは相変わらず彫像のように、堅い生真面目さを顔に張りつけて、短い見習い時代に一応学び覚えたのだろう構えをとった。その形に、狂いはない。いかにも記憶力に優れた彼らしい。
呼応する形をとりながら、エクレイドは言った。
「それじゃあ、一の型の最初から」
ライファラス神殿騎士に伝えられる伝統の攻防に従って、二人は刃を潰した剣を打ち合わせた。
儀礼の意味以上の理由で剣をとることは、まったくと言っていいほどなかったリンドグレンであるが、教練官の教えを忠実に再現するその能力はさすがだった。一手一手を確実に消化しつつ、型は応用技に派生してゆき、二人は無言で模擬剣を振り続けた。
「――ッ」
押し殺した声があがったのは、型を組みはじめてしばらくのことだ。剣の転がる音を聞き、エクレイドはしまった、と我を取り戻した。一連の型の、心地よい流れの中に身を置くさなか、相手の存在を失念してしまったのだ。
彼女の打ち下ろしを受け損なって模擬剣をもぎ取られた手を、リンドグレンが押さえている。宙に向かっているときならばいざ知らず、彼には、無心になったエクレイドの剣撃は、いささか鋭すぎた。
「すまない、大丈夫か」
「ああ……」
リンドグレンは頭を振った。
「どうも駄目だな。すべきことはわかっているのに、身体が追いつかない」
手首を撫でる彼の代わりに剣を拾うと、エクレイドは彼を訓練場の外周に植えられた、木の陰に誘った。相棒の息があがっていることに、気づいたからだった。
木の根元に座りこんで、二人は、しばらく空をゆく雲を見ていた。
「ままならないものだな」
ぽつりと、リンドグレンが呟いた。
「きみの、稽古の相手も務まらないとは」
「仕方ないさ。割いてきた時間が違うんだし、人には向き不向きがあるからね」
「だからといって……」
リンドグレンは言いさして、口をつぐんだ。その視線は、先ほどひねったらしい手首に注がれている。
「痛むのかい?」
「……いや……」
彼は頭を振り、そして、言った。
「何でもない。この程度のこと、きみと比べるべくもない」
「わたしと?」
「そうだ。使命を帯びて戦うたび、きみは私を後方に置いて、いつも傷を負っている。肉を削がれても、脚を射抜かれても、悲鳴をあげたことすらない。ただ笑って、私の安否を気にかけるだけだ」
「それは……」
エクレイドは、困惑した。身をもって盾にすることは、武術を修めた彼女にとって、いや、周囲の誰の目から見ても、当然な役割というものだった。
誰よりも理性的なこの相棒が、そんなことを気にかけているとは、思いもしなかった。
「しかし、リンドグレン、わたしの負った傷は、きみが全部きれいに手当してくれているじゃないか」
「傷を癒すことはできても、負傷の苦痛をなくすことは、できない。……エクレイド、私はきみと組んでいることを誇りに思う。だからこそ、きみばかりが苦痛を負うことが、許せないのだ」
リンドグレンがここへやって来た本当の意味を、エクレイドは理解した。
彼は、彼女にかかる負担を軽くしようと思いたち、訓練を積む気になったのだ。書物の頁をめくる指、あの長い、術を編むための指に、剣を握ることを覚えこませようとして……。
エクレイドは、首を振った。
「リンドグレン、きみは、術に関してわたしがきみを頼りきるのを、不満に思っているのかい?」
リンドグレンは心外そうな表情で言った。
「そんなことはない。きみを補うのが、私の役目だ。我々はそのための『相棒』同士なのだから」
「だったらどうして、わたしが身体を張ることを、負担にしているなんて思うんだ? それがわたしの役目だし、強いられてそうしているわけでもない。わたしがきみを庇うのは、その行動をふさわしいと思っているからだ。それにわたしは……友人が傷つくところを、見たくない。それだけだよ」
リンドグレンは、彼女の言葉をじっと聞いていた。目を閉じ、やがて、溜息のように、声をもらした。
「わかっている……きみがそう思っていることは。だがそれでも私は、きみの……助けになりたい」
「リンドグレン……」
「友人に傷ついてほしくないと思っているのは、私も同じだ――」
微笑みもしなければ、昂揚の素振りすらない。沈痛なまでのその面持ちを、貴重なものだと、エクレイドは思った。
石の男。石のリンドグレン。
今はもう誰も、彼をそう呼びはしないだろう。周囲に対して目を閉じたりはしない。身近な人々を案じ、自分から関わろうとする気持ちを、……勇気を、持っている。
「もっと修練を積むよ、リンドグレン」
温かさに心をひたしながら、エクレイドは言った。友人の愛情に、感謝と喜びを感じながら。
「修練を積んで、怪我を減らす。きみとわたしと、両方の身を守れるように。きみとわたしと、両方の心を……守れるように」
「……エクレイド」
「考えてみてくれ。万が一きみが怪我をしたら、いったいだれが術を使えるっていうんだ? わたしじゃあ、爪の先ほどの明かりをつけることさえできないんだぞ。そんなの、困るじゃないか」
生真面目な神殿騎士は、思わず、微笑を誘われたようだった。頬を緩め、そうだな、と呟く。
「……そうだな、それは困る。万が一、きみに神依語を唱えさせる羽目にでもなれば、神がお怒りになるかもしれない」
「……だろう?」
「……自信をもって胸を張るようなことではないのだが」
エクレイドは笑った。つられるようにして、リンドグレンも小さな笑声をあげた。二人は木の幹にもたれかかって、空を見上げた。
「そうだな、それで良いのだな。私は私の力で、きみはきみの力で、互いを補う。そのことに、何の不足もないのだな」
「そうだよ」
エクレイドは立ち上がった。日のあたる場所へと歩み出る。
「きみが後ろにいてくれる。だからわたしは、安心して戦うことができるんだ。どんなときよりも。だって我々は、神殿長さまの言うところの、『最良の一組』なんだから。そうだろう?」
リンドグレンは再び呟いた。そうだな、というその声には、何かの安堵のようなものが、にじんでいた。
エクレイドは、振り返ってひとつ微笑んだ。
「とはいえ、たまに身体を動かすのはいいことだよ。気晴らしになるし、健康にもいいしね」
彼女は手を差し伸べた。最良の相棒に向かって。
「さあ、訓練を再開しよう。一の型の、最初から」
返ってきた、リンドグレンの微笑は穏やかだった。うなずいて、右腕を伸ばす。
二人は手を握り合わせた。