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星天夜話

Under the starry sky


 ふと、目を覚ますと、隣にいるはずの相棒の気配が消えていた。
 リンドグレンは身を起こして、部屋の反対側の壁に寄せられた、空っぽの寝台を見つめた。起き出したままの、乱れた毛布。いつだって手放すことのない剣すら、その枕元に置き忘れられている。ようすからして、抜け出したのはさほど前のことではないのだろう。
 彼は何とはなしに溜息をついて、床に足をおろした。自分もずいぶんと変わってしまった。かつては、同じ部屋の中に他人の寝息が聞こえるのが恐ろしいように感じられて、どうにも気の休まることがなかった。それが今では、確かにあったはずの気配がなくなると、違和感を覚えるまでになっているのだから。
 王国『中央ラルギン』の一大交易都市、史書に『都市の黄金』とも呼ばれたヴァルナの、静かな真夜中だった。
 街の対面の盛り場などではいまだ、昼のような騒ぎだろうが、さすが大神殿の客館ともなると、身じろぎも憚られるような静寂に満ちている。
 異変を追って、あちらこちらを行き来する旅のなかで、彼らは何度かこの街を訪れた。中央広場には大聖堂が開かれ、すべての大神殿がそろっているような規模の大きさには圧倒されるばかりだったが、彼の相棒にとってはそうではないようだった。
 彼女にとって、この豊かさに洗練された土地は、懐かしいものなのだった。彼女はここで俗世を捨て、幼い見習いの時代から、騎士貸与剣を授かるまでの六年間を過ごしたのだ。
 ウェブロスが彼にとっての家であるように、彼女の中にはこここそが、という意識があるのだろう。ヴァルナを訪れたときの彼女には、旅の途中というよりどこか、古巣に戻ったことに安堵しているような雰囲気がある。口うるさい母親から隠れる子供のように、進んで大神殿に赴こうとはしないのだが、ひとたびその内に入り込んでしまえば、リンドグレンにはわからない古い習慣にあっさりと従って、彼女はヴァルナの住人になってしまう。
 そう、今のように。
 ローブを着、借り物の平靴に素足を通すと、リンドグレンは部屋を後にした。廊下の隅に、時を示す小さな燭台の灯りが燃えている。蝋燭のようすから、朝の早い神殿の住人たちが起き出すまでにも、まだ二時間ほどあるのがわかった。
 細長い通路に連なった、来客用の質素な個室の扉は、どれも固く、眠りの世界を閉じこめて外にもらそうとしない。彼は神に光を願うことをせず、暗い廊下を歩きだした。
 ヴァルナ大神殿は地方都市であるウェブロスに比べて、巨大で、堅固で、施設も設備も整っていた。加えて建物の雰囲気はやや冷たく、厳めしい感じがする。だがやはりその分、そうそうには人の目の行き届かないところがいくつもあって、見習いの時分にはよく、そういった場所へ抜け出したものだと、彼女は言っていた。
 彼女は――彼の相棒は、思い悩むということを知らない人間だった。だけれど、それは何も感じないということとは違う。
 青春時代を過ごした場所であるからこそ、心に寄せてくるものがあるはずだ。闘いに生きる騎士であるからには仕方のないことだが、彼女はその時を共有した友人を、すでに何人か亡くしている。
 聖堂の陰に沈む前庭に出たリンドグレンを、蒼い月光が迎えた。冴え冴えときれいな月だった。
 現界のあまねく眠りを乱さぬように、彼はそっと歩きだした。
 この神殿にはあまりくわしくなかったが、それでも、最初に行こうと思う場所は決まっていた。






「エクレイド」
 呼びかけると、女騎士はおや、と眉を上げて振り向いた。笑って問うてくる。
「眠れないのかい?」
「それはきみのほうだろう」
 リンドグレンが言うと、彼女は肩をすくめた。
 鐘楼のてっぺん、ヴァルナ市のすべてが見渡せる吹き抜けの縁に腰をおろして、エクレイドはのんびりと濃紺に染まった街並みを眺めていた。
「よくここがわかったね」
「以前話していただろう。夜中によく、聖堂の鐘楼に忍び込んだと」
「そうだったっけ」
 エクレイドは塔の階段口に立ったままのリンドグレンを手招きした。
「まあいい。きみも来てごらん。ただし、足場は悪いから、気をつけて」
 リンドグレンは躊躇したが、腹を決めて狭い足場に踏み出した。彼の長身が危なげにふらふらするのを、エクレイドは微笑して見守っていた。
「見習いのころ、夜中に腹を空かせて目を覚ますと、よく仲間を誘ってここに来たんだ。もちろん、途中で厨房へ寄って、食べ物を失敬してくるのも忘れずにね」
 まるきり板のような橋を渡ってたどりついた彼に手を差し伸べながら、エクレイドは言った。切り出し窓の石組みの上に彼を引きあげる彼女は、相変わらず屈託がなく楽しげで、力強く明るかった。
 それはきっと、見せかけだけのものでも嘘でもない。しかし、澄みきった瞳はいつもよりほんの少し、遠くを見ているように、彼には思えた。もしかしたら、射し込む月光が、女騎士の端正な面の陰影を、より濃く浮かびあがらせているせいなのかもしれなかったが。
「そこに――」
「うん?」
 図らずもこぼれてしまった言葉を憚って、リンドグレンは沈黙した。それを訊くのは、とても残酷なことだった。
 ――そこに、彼はいたのか。
 先だって、ヴァルナでひとつの騒動があった。神殿騎士の一部が、野の盗賊どもに通じていたのだ。背信者のなかには、エクレイドの友人だった男もいた。
 そしてその男に引導を渡したのは、彼女だった。
 道を違えたことを知った旧友を相手に、彼女は見事に戦い、勝った。とどめの必要を問うた彼女に、男も潔く「頼む」と言った。そのとき、命の奪い合いも辞さなかった二人の間にあったのは、確かな絆だった。己の誓いに背いた男は、それでも、死の瞬間まで彼女の〈兄弟〉だったのだろう。
 尋ねるまでもなく、かの男は彼女の『仲間』であったに違いない。例の事件から、彼らがこの街を訪れるのは初めてだ。エクレイドはかつての友人のことを思いだしただろう。
 死者を悼む気持ちは自然なものだ。
 その死が、己の手によるものならば、なおさら。
 並んで、夜の冷たい空気に身を乗り出すようにしながら、リンドグレンはかすかな罪悪感に似たものを覚えた。それは、自分が生きていることに対するものでもなく、彼女の成したことに関する共感でもなかった。そうではなく――。
 今は、自分がこの場所にいる。
 彼女の傍らに、思いを語る相手として。かつては彼らのいた場所に。
 本当に、自分は変わった。
 リンドグレンは思った。昔の自分なら、こんなふうに考えることはできなかった。エクレイドを探しに行くことなどできなかったろうし、自分が傷ついた記憶から、彼女の心中を勝手に勘ぐって消沈しただろう。
 例えここに立つことができたとしても、罪悪感は巨大で、手招きする彼女のそばにも寄れずにいたはずだ。
 まして、己の存在で、彼女の心を慰められるなどとは。
「――そこに、明るく光る星があるのがわかるか」
 ローブの袖を押さえながら、リンドグレンは腕を伸ばして夜空を指し示した。不自然な沈黙の理由を疑りもせず、エクレイドは彼の話題に乗った。
「見える」
「あれは弓手星といって、秋から冬にかけて現れるものだ。周りに半円を描くように連なる星を弓に見立てると、つがえられた矢の先端になる」
「へえ」
 小さく笑って、エクレイドは瞬く光に指を向け、その形をたどった。
「くわしいな。じゃあ、あの矢はいったい何を狙っているんだい?」
「……あちらに、鳥の足のような形をした星座があるだろう。それから、下のほうに子鹿……」
 ――今こうしていることは、いつか彼女の中で温かい思い出になって残るだろうか?
 失われた人々のそれに埋もれず、また、彼らのそれを潰すこともなく。
 年端もいかない少年がするようなたわいのない話を、きらめく天蓋の下で彼らは交わし続けた。夜が明ける、そのときまで。
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