とある使命を果たし、ウェブロス大神殿への帰路に就いていたときのこと。エクレイドは、一組の馬車の一行と、一組の賊徒とに同時に遭遇した。
馬車の一行は、そのしつらえからして貴族のようだった。護衛というには貧弱な供回りを少々従えているだけで、各々武装した群盗どもから身を守ることは、とうていできそうにない。
喜々とした叫びをあげて、盗賊たちが馬車に襲いかかった。
無防備な旅人たちは、悲鳴を発し、突如現れた凶刃から逃げまどった。馬車の扉に手をかけようとした強盗に気づいて、引きはがそうとつかみかかった勇敢な供の一人が、剣での返礼を受け地に沈んだとき、愛馬に拍車をあてたエクレイドは、騎士剣を引き抜いて数ガゼルの距離に迫っていた。
威嚇の声をあげ、エクレイドは混乱の最中に飛び込んだ。
馬車の扉を打ち壊し、中から人を引き摺り出そうとしている野盗どもの上に、ローラ・カラトスが閃いた。一動作で二人の男の身体を切り裂いて、エクレイドは叩きつけるように言った。
「ウェブロス神殿の領内で、太陽神に背くのは何者だ? 名乗り出るがいい、わたしのこの剣が、裁きの間に送ってやるぞ!」
鐙の上に立ちあがって、一見して判る業物を振りかざす若い騎士には、神の名を呼ばうにふさわしい威が備わっているように、少なくとも盗賊たちには思えたろう。
エクレイドは奇襲者たちが、逆に奇襲にあったときのそういう心のうわつきをよく承知していたので、ことさらもってまわったような振る舞い方をしたのだった。
エクレイドがもう一度、騎士剣を振るい、賊の一人を斬り捨てると、彼らは自分たちがしくじったことを悟ったようだった。
脅すつもりで、数十ガゼルの距離を追い回してやって、ほうほうの体で走り去る群盗どもの姿が見えなくなると、彼女は馬車の人々の元へと戻った。
「大丈夫ですか、怪我は?」
馬車の下に、倒れていたあの忠実な従僕を、若い貴族が助けおこしていた。呻き声がきこえるところをみると、どうやら無事らしい。
「肩をやられたようですが、大丈夫そうです。……アーヴ、立てるか?」
貴族の青年は、傷を負った従僕に手を貸すと、自ら馬車に乗せてやっていた。しきりに遠慮するのを、有無を言わさず押しこむ背中に、エクレイドは好意をこめた言葉をかけた。
「よろしければ、ウェブロスまでいらっしゃいませんか? 馬車も修理できるし、治療も必要でしょう。お送りしますよ」
「ありがとうございます、騎士殿、助けて頂いたうえに――」
青年は、感謝の面持ちで振り返りかけ……ふと、全身を凝固させた。
自分を見つめる貴族の目に、エクレイドは既視感を覚えた。この顔立ち。どこかで……。
彼女が答えを出す前に、青年が口をひらいた。紡がれた言葉は、一気に八年もの時を逆のぼらせる呪文のようなものだった。
「――エイディア?」
「……ナーグ……」
懐かしい名前だった。エクレイドは、記憶の中に探しあてた顔を、目の前の青年貴族の上に重ねあわせた。
それは、幼い時間をともに過ごし兄弟のように育った……そして、一度は婚約者といわれた、少年の面影だった。
「ティークに新しく買った葡萄畑を、視察に行くところだったんだ……」
ウェブロス神殿内の、客館へ続く外廊を歩きながら、ナグスティン・アーディムは言った。
「まさかあんなふうに、きみに会えるとは思わなかったよ」
柔らかい麦藁色の髪も、はにかんでいるような笑い方も、変わっていない。少し気弱で、いつもエクレイドの後をついてきた一つ下の少年、そのままだ。
彼女がそう言うと、青年貴族はちょっと不満そうに唇をすぼめた。
「それはないだろう。僕だって、少しは変わったと思うけど」
「そうだね。背は、少し伸びたかな」
エクレイドはちょうど真横の位置になる幼馴染みの顔を見やった。ナグスティン……ナーグは、同年代の子供たちに比べても、やや小柄な少年だった。当時は、拳一つ分は彼女より低かったのだ。
見慣れたウェブロスの前門を潜り、見慣れた修道者たちとすれちがいながら、見慣れた回廊を歩いているはずなのに、エクレイドの心は、知らず、自分の生まれた場所……サンドールの館へと飛んでいた。
彼女が短い少女時代を過ごした故郷。今では、思い出すことも希になった。
その場所にまつわる全てのものを、彼女は愛していた。だが、彼女は生まれながらに自由な鳥の宿命をもっていたのかもしれない。翔ぶ空も、止まり木も、自分で決める。籠にとじこめられることは、死にも等しい苦痛だった。
貴族の娘に特有の、あのお定まりの運命、淑女となり、妻となり、母となり……一生を虚飾と笑いさざめきの中で送る生涯を、エクレイドはどうしても選ぶことができなかったのだ。
「きみは、変わってないね、エイディア」
彼女を子供時代の愛称で呼び、ナグスティンは言った。
「自分の気持ちを隠さずに口にしてしまうところや、……強いところ……」
彼は回廊に張り出している木の枝から、葉を一枚つみとって、指先で弄んだ。昔から、物思いにふけったりするようなとき、よくする仕草だった。
「何か、心配事でも抱えているのかい?」
エクレイドは尋ねた。何とはなしに、幼馴染みが沈んでいるように感じられたのだ。
「いや……そうじゃないよ。いろいろ、思い出していたんだ。懐かしいことを」
ナグスティンは微笑して、すぐ目の前の建物を指さした。
「あれかい? 客館というのは」
「ああ、そうだよ。不自由はかけないつもりだけど、質素なのは我慢してほしい。足りないものがあったら、修道者館の修道士に言ってくれればいいよ。何かあったときも、わたしへの言伝を頼んでおいてくれれば届くから」
「分かった」
「もし、わたしがつかまらなかったときは、タート・リンドグレンを呼んでもらってくれ。彼なら、大抵のことはうまく処理してくれる。彼には、わたしから話しておくから」
リンドグレン、と口の中で呟いて、ナグスティンは問った。
「古風な名前だね。……友達かい?」
「相棒だよ。一番信頼できる、ね」
エクレイドは答えて、旧友の肩を叩いた。
「ほら、入り口に案内役の修道士が待ってる。わたしは、用があるからこれでもう行くけど、何か他に訊きたいことはあるかい?」
青年は少し考えて、
「晩餐を、一緒にとりたいんだけれど、無理かな?」
「いや、大丈夫だよ。それじゃあ、時間になったら、ここへ来るから」
そう言って、外廊を引き返そうと歩き出したエクレイドに、一瞬の間をおいて、ナグスティンが呼びかけた。
「エイディア! 本当に、会えてよかった。あれから、きみがサンドールを出ていってしまってから、ずっとそのままだったから、それきりだったから、気になっていたんだ」
真剣な目が、エクレイドを見つめていた。本気で、こちらを案じている目。
そうだ、いつだったか、彼女が落馬してしまったとき、あのときも、今と同じ目で、彼は彼女をのぞきこんでいた。
本当に、変わっていない。
「ありがとう、ナーグ。それじゃあ、また後で」
あれは、十四になったばかりの夏だった。
父の書斎に呼び出され、エクレイドは弟とも思っていた少年との婚約を告げられた。意志の確認ではない、すでに決定した事柄として。
瞬間、頭が真っ白になったのを覚えている。何を言われたのか理解できなかったのだ。次いで、まさか、と思った。ぽかんと開けた口で笑おうとして、彼女はそのまま表情を強張らせた。
唇を引き結んだ。父がそうして彼女を見下ろしていたからだ。
これは。父が言った。両家の間でもはや決まったことだ。秋には婚礼をとりおこなう。おまえは結婚するのだエクレイド。ナグスティンと。
……今なら、エクレイドにも判る。何故父が突然そんなことを言い出したのか。
時が来ればと放置しておいた末の娘が、いつになってもしかるべき姿におさまろうとせず、男以上に男らしく、剣や乗馬にのめりこんでいくのを、危惧したうえでの方策だったのだろう。
しかしこのときは、エクレイドははっきりと、自分の人生が侵略されようとしているのを感じた。それを防ぐには、独力で運命を切り開くしかないことも。
あの大人しい幼馴染みの少年を、父が利用しようとしていることに、彼女は憤りを覚えた。
おまえは、この儂の娘なのだ。
父は言った。窓の外に視線を向けて、父は、エクレイドを見ようとはしなかった。――反対も拒絶も許さん。おまえは、このサンドール伯爵家の娘なのだから。
エクレイドは、昂然と頭を上げていた。父を、正面から見つめていた。抗い難いものにその身を譲り渡された哀れな娘のようにではなく、張り巡らされた困難の茨に、自ら挑む覚悟のある息子のように。
礼拝が終わったことに、エクレイドはしばらく気づかなかった。
リンドグレンが肩を揺するので、彼女はようやく周囲の状況を悟った。みんなはもうそれぞれに散って、思い思いの場所に向かおうとしている。聖堂には幾人かの修道者が残っているのみだ。
思い出を追うということは、存外精神の力を必要とする作業であるらしい。彼女は苦笑して、外へと向かった。
「随分と、熱心に祈っていたな」
リンドグレンが言った。
「きみが欠伸をしない説教を、初めて見た」
「はは、ひどいな。わたしだって、その気になれば聖職者らしく振る舞えるんだぞ」
「口さえ開かなければな」
親しみのこもった口調で青年騎士は答え、それからがらりと、表情を改めた。
「どうした、エクレイド。何か、悩みごとでもあるのか。きみらしくないとは思うが」
「いや……」
エクレイドは言葉を濁した。話すことをためらったのではなく、自分でも、何と言っていいのか判らなかったからだった。
「何だか昔のことが、あれこれ思い出されてね。わたしも、らしくないとは思うんだけれど」
「幼友達と再会したのだから、無理もない」
「………」
外廊から内庭に出て、エクレイドは青空を見上げた。風が吹いて、彼女の髪を乱す。短い髪。あの日、迷いもなく切り落とした、彼女の人生の一部分。
「前に、何故わたしが神殿に入ったか、話したことがあったろう?」
「ああ」
リンドグレンは静かに彼女の後をついてきた。エクレイドが、心の中にものを溜めこんでおけない質であるのを、彼は知っていた。
「馬鹿げた話だよ。互いに兄弟のように思っているもの同志を、結婚させようとするなんて。わたしとナーグを、添わせようとするなんて」
結婚を強制されたことによって、エクレイドは家を出奔した。
結果的には、そうだ。だが彼女は、もっと根源的なところで、束縛されそうになったことに、耐えられなかった。
それは、魂の自由であった。
「……会いたくないと思っていたのか。アーディム殿と」
リンドグレンが問った。エクレイドは首を振った。
「嬉しいよ、リンドグレン。彼に会えて。彼に、再会を喜んでもらえて。だけど、相談も一言の断わりもなく、勝手にわたしが消えてしまったから、婚約者に逃げられた形になって、彼には恥をかかせただろう。そのことが少し、後ろめたいのかもしれないな」
「……後悔、しているのか」
エクレイドは考え、やはり、頭を振った。
「後悔はしていない。今までに一度だって、自分の意思で選んでしてきたことに、後悔なんてしたことはないよ。ただ、思うんだ。変わってしまったものもあれば、変わらずにいるものもある。同じだけの時を経たはずなのに、何て不思議なことだろうって」
リンドグレンは黙って、彼女の話を聞いていた。その沈黙を、心地良いと彼女は感じる。
失ったものの代わりに、得たものがある。
彼女は己のたどってきた運命を、恨んだことはなかった。
四日、ナグスティンはウェブロスに滞在した。
三日目の昼、彼は自分からエクレイドを尋ねてきた。
彼女は訓練場で、仲間たちと日課をこなしながら、爽やかな汗を流していた。幼馴染みの姿に気づいたのは、タート・ベウロンと組んで、一通りの型の訓練を終わらせたときだった。
外周を示す植え込みの外側に、ナグスティンはリンドグレンと立っていた。
「タート・リンドグレンにお願いして、連れて来て頂いたんだ」
ナグスティンは言った。
「きみが訓練しているところを、見たかったから」
リンドグレンは何も言わず、控え目な態度で一歩退いた。おかしなことに、彼はエクレイドではなく、ナグスティンとうなずきを交わし、いつもの書庫へと去っていった。
「少し……いいかな。話があるんだ」
「構わないよ」
エクレイドは何ごとかと待っているベウロンに模擬剣を投げて、植え込みを飛び越えた。
「おい、どこへ行くんだ。まだ途中だぞ!」
「しばらく、休んでいてください。足がふらついてましたよ。年じゃないんですか」
「何を! よし、覚えてろ。この復讐は、夕飯の皿の侵略でしてやるからな」
明るく笑いながら、同僚に手を振って、エクレイドは歩き出した。ナグスティンは、そんな彼女たちのやりとりを、驚いたように見つめていた。
「どうしたんだい、ナーグ? そんな顔をして」
「いや、何でもないよ」
慌てて、ナグスティンは答えた。自分が表情を露にしていたことに、今気づいたといった風情だった。
「ただ、あんまりきみが自然に振る舞うものだから、驚いただけなんだ」
「わたしは、いつもこうだったろう?」
「……そうだね」
溜め息をつくように、彼は呟いた。
「いつも、どこででも、きみはそうだった。それが、わからなかったなんてね」
二人は聖堂へやってきた。ナグスティンの足が、そこへ向かったからだった。
礼拝もなく、参拝者もいない。今は無人の神の膝元に、彼らは立ちつくした。
「本当はね」
しばらく、天窓から落ちてくる光を眺めていたナグスティンが、言った。
「ティークに行くなんていうのは、嘘なんだ。……きみに会うために、ここまで来たんだ」
彼は目を伏せた。
エクレイドは、リンドグレンが自分にそうしてくれたように、黙って聞いていた。やがて、幼友達は呟いた。
「結婚をするんだ。この秋に」
エクレイドは、安堵した。まず浮かんだ感情がそれだった。
八年前に、一度歪みかけた彼の人生が、正しい方向へ立ち戻ったことを確認できた、安らぎだったのかもしれない。彼女は心から、弟も同然の青年を祝福した。
「おめでとう、ナーグ」
ナグスティンは、彼女を凝視した。
扉の壊れた馬車の前でそうしたみたいに。裏のない喜びから、何か別のものを見出だそうとするかのように、彼はかつての婚約者を見つめた。
そして、どこか淋しげに微笑した。
彼は聖壇の壁に飾られた太陽神の紋章を仰いだ。追憶の瞳だった。もはや失われた過去を追うまなざし。
「……もしもあのとき、きみが家を飛び出して行かなかったら、僕たちはこうして並んで、婚姻の誓いを立てていたんだろうね」
「だが、そうならなかった。それでよかったよ」
穏やかなエクレイドに、ナグスティンは問った。これだけは聞かずにおれない、そんな真剣さで。
「きみは、自由を求めて旅立ち、そして神のものになった。そのことを、後悔してはいないのかい?」
エクレイドの答えはもう出ていた。リンドグレンに問われたときに。もっとずっと、遠い昔に。
「わたしはわたしのものだよ、ナーグ。生まれたときから、死ぬときまで、それは変わらない。わたしは、ずっと自由だったよ」
ナグスティンは目を閉じた。胸を襲う痛みに耐えるように。
瞼を開いたとき、彼は、エクレイドの好きだったあの笑い方で微笑んでいた。手をさしのべて、彼は言った。
「ありがとう、エイディア、……姉さん」
二人は握手を交わした。
ナグスティンはその翌日、故郷へ向けて出発していった。
その年の晩秋、ウェブロスに、一つの荷物が届けられた。
送り主は、ナグスティン・アーディム。二つ年下の妻を娶り、子爵の位を継いだばかりの、青年貴族からだった。
荷物に添えられた手紙には、見知った署名のほかには、たった一文があるのみだった。リンドグレンに荷を預け、受取人であるエクレイドはそれを読んだ。
しばらくして紙片を閉じたとき、彼女は、郷愁に似たものがわきあがるのを感じて、苦笑した。
「開けてくれ、リンドグレン」
彼女は相棒に頼んだ。青年騎士は、彼女の要望に応え、荷物をくるんでいた布をとりはずした。
「これは……」
中身を見、リンドグレンは英知を宿すその双眸を瞠った。
それは、額に入れられた一枚の肖像画だった。きらめく秋の稲穂のような長い髪を、結いもせずに無造作に流した、絹のドレス姿の少女の絵。
その顔立ちは美しかったが、瞳の強さが、可憐な舞台装置の全てを裏切っていた。
それでも、その少女はある特殊な魅力を放っている。決して手に入らないであろうものに対して人々の抱く、どうしようもない、憧れのようなもの。
手紙には、こう書かれていた。
『きみに、きみを返すよ』
他人を紹介するようにこだわりなく、彼女は言った。
「伯爵令嬢エクレイド・ディア・サンドール。今はもう、この世に存在しない人間だよ」