降りしきる雨が、訪れるはずの朝を遠ざけているような気がする。
虚ろな意識の中、耳に流れ込んでくる雨音を聞きながら、リンドグレンは思った。
昔から、雨は嫌いだった。特に、宵闇を濃くする夜のそれが。
記憶の、始まりの場面がそうだったからかもしれない。生まれてはじめて目の当たりにした彼の世界は暗く、陰湿で、寒かった。
以来、雨の日にはいろいろなことが起こったものだ。大抵において、彼の肉体を打ちのめし、彼の精神を追い込み、彼の存在を弄ぶだけの、諸々の出来事だ。
自分の意識が生まれたあの日。はじめて言葉を紡いだあの日。
自分の『言葉』が、はじめて他人を傷つけたあの日。
母が自分を呪ったあの日。刃を向けたあの日。
――同胞の、血だまりの中に、茫然と座りこむしかなかったあの日。
同じ雨の日に、養い親との出会いもあった。
数え切れない――とはいえ、彼の呪われた頭脳は生まれてこのかたのすべての出来事を記憶していて、その気になれば正確な数をあげることもできるのだが――不遇の果てに、彼はようやく、与え、守られる喜びを知った。
だが、庇護者を得て、雨にまつわる彼の不幸が、なくなったわけではなかった。
雨宿りをすれば、自分の代わりに軒が濡れる。彼をそばに置いたために、敬愛すべき師父は難しい立場に立たされていたのだった。
雨。厭わしい雨。
大気を拭き清める力すら持つというのに、それはいつでも彼に、辛い現実を連れてきた。
リンドグレンは孤独だった。孤独でなければならなかった。
彼に害をなすものであれ、彼を益するものであれ、あらゆる現界の存在が、結果として彼を苦しめる。それを少しでも和らげるためには、彼は超越者である神に頼るしかなかった。
賢明なる養い親は、そのことに気づいていたのだろう。引き合わされた神は、寛大でありながら厳格な、慈悲深い、残酷な存在だった。
ライファラスに祈りながら、自分は暗闇の生き物だ、といつも彼は胸に呟く。
長い長い夜を耐え、やがて眩く昇る太陽に、焼き尽くされ、浄化されることを望んで生きている。それこそが、自分に対する裁きにふさわしかろうと思うからだ。
それなのに、なぜ赦すのだ。
せめてきれいな終わりだけを、彼は望んでいたのに、朝日とともに太陽神は、祈りの夜に赦免を与える。
一夜の祈りには一日の赦し。
二夜の祈りには二日の赦し。
そうして、彼は幾夜を過ごしてきただろう。いつまで過ごせばよいのだろう。
彼には怖ろしい。
日々少しずつ、赦されることに馴れていくのが。
馴れと期待は人の心を弱くする。ふと訪れる雨の日が、今では昔にも増して苦しく辛い。彼から光をとりあげる雨雲が。おまえは赦されてなどいないのだと、耳元で囁くような雨だれの音が。
……本当に、怖ろしかったのだ。あのときまでは。
「――リンドグレン」
不意に響いた声が、彼の意識をすくいあげた。
上下の感覚が戻り、自分が地面に横たわっていることを知る。いつのまにか、何かの荷物のように、身体に毛布を巻きつけられているのがわかった。なかでも、上半身だけが特別に優しい温もりに包まれている。
リンドグレンは重い瞼をこじ開けた。正面に、自分をのぞき込む、凛々しい少年のような、女騎士の顔があった。
「大丈夫かい、ずいぶんとうなされていたよ。――わたしがわかるかい? 気分は?」
「エク――エクレイド」
彼は呟いた。
その瞬間、どっと散らばっていた記憶が戻ってきた。
旅の途上、街道沿いの野を進むうちに、土砂降りの雨にあたって、彼は倒れたのだ。大神殿に入って以来、敷地の外へ出たこともないくらいの彼が旅慣れているはずはなく、たまっていた疲れが容易く熱となった。
どうやら、風雨だけはしのげる場所に運び込まれているらしい。
「やれやれ、多少は正気づいてきたみたいだな」
周囲の景色をさまよう彼の視線に、気づいた女騎士は、屈託のないからりとした微笑を浮かべた。
「きみのうわごとときたら、何やらわからない古めかしい言葉ばかりで、中央語はこれっぽっちも含まれないのだものな。妙に居心地が悪かったよ」
肩をすくめながら、エクレイドが言う。その顔の近さに、リンドグレンは自分が、彼女に抱きかかえられていることを知った。
天然の洞穴か何からしい、地面は、当然ながら剥き出しの土に覆われている。冷たい大地からはいあがる寒さを避けるため、リンドグレンの全身には、旅の荷物から、ありったけの布が敷き被せられていた。そして仕上げとばかりに、女騎士は自分の両脚を、枕がわりに提供していたのだった。
静かにはぜる火のごくそばへ、彼が眠りやすいよう中途半端に膝を曲げて、じっとしているのは決して楽ではなかっただろう。見れば彼女は、平服に、マントすらはおっていなかった。
「……すまない」
鉛がつまったような喉で、かろうじて彼は呟いた。他に、何と言っていいものかわからなかった。
「なんの、たまにはいいさ」
エクレイドが肩をすくめる。それが、ちょっとしたときに見せる彼女の癖であることを、最近になってリンドグレンは覚えていた。
「まだ夜明けには間がある。眠れるのなら、もう少し眠るといいよ」
女騎士は言い、彼を支える膝の片方を器用に立てて、その上に頬杖をついた。不便などとはさらさら縁がない、といったようすで、空いた腕を伸ばし、焚き火なぞをかき混ぜている。
彼女は、こうすることを苦とも、義務だとも思っていないのだ。面倒にすら、これっぽっちも感じていない。ともに行動するようになってまだ間もないが、リンドグレンにもそれが、揺るがしがたい事実なのだとわかる。
彼女は自分がそうしたいから、するのだ。他に理由など持たない。
彼女はいつもと変わらず、まったく変わらず、明るく元気だった。そのことが、リンドグレンを安堵させる。
彼とともにいながら、彼女は陽気で、生き生きとして幸せだ。
そうして、彼を気安く『相棒』などと呼ぶのだ。
思えば、雨の連れてきた出来事のなかで、彼女との出会いだけが彼を痛めつけなかった。
リンドグレンは、炎に照らされた彼女の横顔を見つめる。たとえ祈りの言葉ひとつ覚えられなくとも、どれだけ礼拝をさぼろうとも、彼女は正しくライファラスの使徒だった。
彼女の生命の輝きは太陽の光そのもののまぶしさで、触れるものの存在を、こだわりなく赦すことを知っていた。あまりに強い彼女の光に、固く閉じていた瞼をこじ開けられたそのとき、彼ははじめて、『赦す』という行為には、際限などないのだということに気づいたのだ。
彼女は彼の一切を受け入れた。
どんな過去も理由も、未来さえ、現在の彼を認めるのに何の意味も持たないのだと言った。
はかない人の身である彼女にそう言い切ることができるというのに、神の赦しに限りなどあろうか。
師父であるセイナルは、彼を養い、育ててくれた。
では彼女は、彼の二人目の養い親であるのかもしれない。
彼は彼女によって、もう一度この世に生まれ直すことができたのだ。
リンドグレンは眸を閉じようとした。そのときふと、耳に響いた鼻歌が、彼の意識を現実に引きとどめた。
いささか調子外れだが、明朗な、エクレイドの声だ。火掻き棒がわりの木の枝で、灰の中にとりとめのない落描きをしながら、女騎士はとても気分がよさそうだった。
彼は思わず、唇の端に込めていた力を、そっと緩めた。
彼女の音痴をおかしむ気持ちからではない。ではこれは、揺りかごを揺らす子守歌だろうかと考えたからだった。
微笑みの気配を正確に読みとって、エクレイドが見おろしてきた。彼女は憤慨も追求もせずに、ただ、笑ってこう言った。
「朝には、ひいているといいね」
目の色は暖かかった。
何が、とはあえて言わない彼女は、聡く、そして優しい。
リンドグレンはうなずき、再びの眠りにおちた。深く、夢も見ない眠りに。
夜の雨はまだ止まず、静かに世界に注ぎ続けている。これからも、まだときどきは、雨が連れてくる記憶に悩まされる夜もあるだろう。
でも、いつか。
彼は思った。
いつかこの現実だけが、すべてになればいい。