城門前広場 > 領地への門 > 大広間 ― 最後の手紙
最後の手紙


 王の宮廷で、人々の口にのぼる名前がほぼひとつに絞られるようになって、七日の巡りが二度過ぎた。
 その日も朝から、セオ・ウルヴァルに投げかけられた挨拶の中に登場したのは、同じ人物ばかりだった。
「ごきげんよう、書記長殿」
「これは、外務官殿。いつお戻りに?」
「一昨日の深夜にだよ。いやはや、途中戦が始まると聞いたときにはいったいどうなるかと思ったものだが。なんとか無事に、祖国の土を踏むことができた」
「ご無事で何よりです」
 回廊で立ち止まったまま、神妙な言葉をかけるセオにうなずいてみせ、この外務官もまた言った。
「しかし、ダレノウィット将軍のことは残念だった。あれほど勇敢な話もあるまいよ。必要があったとはいえ、あの数差で敵陣へ切り込むとは」
「かの戦功あってこそ、我が軍は間に合い、北の侵攻をくい止めることができたのだと聞いております。――死と引き替えの武勲とはなりましたが、ご立派と言わねばなりますまい」
「うむ……」
 まったく同感、とばかりに外務官は顎をひねった。
 それはすでにひとつの英雄譚であり、個人として深い親交を結ぶ立場にはなかった彼らのようなものたちにも、しきりに繰り返されている話だった。王国を救った勇者として、少なくともあと数ヶ月の間は、栄誉を謳われるであろう男の物語。
 ダレノウィット将軍は、軍部の若手の中でも特に将来を有望視されていたひとりだった。
 先だって、代々折り合いの悪い隣国と袂を接する北の国境線に、敵軍迫るとの情報が舞い込んできたおり、彼は才を買われて先発隊を任された。
 素晴らしい速度で北上した彼は、敵軍が大街道へ流れ出ることを防ぐために、単独で戦端を開かねばならなかった。軍部にもたらされていた報せよりも、実際の侵攻速度のほうがなお早かったためだ。
 彼が戦場に選んだ峠を抜ければ、あとはなだらかで豊かな、蹂躙を待つばかりの国土が広がっている。
 ダレノウィットは敵軍の難所越えに間に合った。そして狭い地勢を充分に生かして戦い、本隊の到着まで繋ぎ、自ら部隊の後尾をつとめた撤退の途中で、死んだ。両者の戦力差はほぼ五倍に達していたという。
 結末として、国境でなされたこの戦いは敵軍の退却をもって終わり、王の軍隊は勝利者として帰還した。将軍ダレノウィットと名もなき兵士たちの生命、それだけが、今回の侵略で失われたもののすべてだった。
「己に数倍する大軍の前に、死を承知で立ちはだかるなど、並みの気概でできることではない。惜しい人材を亡くした。生きていれば、いずれ国を負って立つ日も来ただろうに」
「まことに」
 お決まりの相づちをうち、特に話題を引きずることもなく、周辺諸国に関する二、三の会話を経て、セオは外務官と別れた。もう何度も、あらゆる相手とかわしてきたうわさ話である。
 ダレノウィットの武勇と死は国民共通の話題でありすぎ、ひどい言い方をすれば、ひとつの流行りものに近い部分があったのだ。
 しかし、執務室に入り、山と抱えた羊皮紙の束をテーブルへ投げ出し、己以外の何ものの邪魔も受けなくなったたそのとき。セオはかの名前のためにこそ、表情を固くした。
 外務官に行き会う、その寸前。赤の他人であったはずの自分と死者を、結ぶ糸が生じていたばかりであったからだ。
 彼は懐からとりだした書簡を見つめた。
 固く結ばれた紐の下に、隠れるような署名には、『ハノーヴ・ダレノウィット』の文字が確かに読みとれた。






「書記長殿、少し、お話があるのです」
 およそ半時前のこと。そう言って、測るような上目でうかがってきたのは、宮廷に出入りを許された織物商人、ゴトルンドであった。
 彼は国内でも有数の富豪であり、同業者組合の幹部を務める、ある意味権能者ともいえる男だ。王への目通りすら、望めば叶えられるこの老大商人の仕事に関する記録は、もうずいぶんと前からセオの役目となっていた。だがこのように、私的な雰囲気を持った相談事を受けるのは、はじめての経験だった。
「ここではいけませんか」
 侍従官たちが、これから納められる見事な毛織物を検分している、部屋のようすを片目に、セオは問うた。ゴトルンドは首を振った。
「人の目のない場所のほうが、よろしかろうと思います」
 彼らはさりげなく保管庫を出て、さほど離れていない回廊の、柱の陰に寄った。老商人は異国風の衣服のあわせを探りながら言った。
「つい先日のことです。我が商館に出入りする商人の一人から、あるものを預かりました。それは旅をする組合員たちの間を介してわたしに届けられたもので、元々の預かり人は北の交易商人だったのだとか」
 ゴトルンドが口にした街の名は、セオも知っていた。この国の最北に位置する街だ。
「どうぞ、お受け取りください。ダレノウィット将軍から、あなたへと送られた手紙です」
 老人が、彼に向けたのではない、明らかな敬意をもって差しあげたものこそが、かの書簡であった。
 一連の態度から、織物商人が亡き将軍を、他の人々がするように惜しんでいることはありありとわかった。勇敢な死を遂げた彼への気持ちから、その最後の言葉を受け取るほどの間柄であった書記長が、目敏く口さがない連中にわずらわされないようにと配慮したのであろうことも。
「……将軍は例の峠へと発たれる直前にこれを書き上げ、私的な文書として届けるよう、直々に依頼されたそうです。おそらく、かの方の残された、最後のものでしょう」
 ゴトルンドだけでなく、ダレノウィットの訃報を耳にした商人たちのすべてが、同じように感じたのであろう。書簡は非常にていねいに運ばれたようだった。幾重にも結ばれた綴じ紐には、いささかの乱れもない。
 署名以外には何ら送り主を証すものはなく、転々と運ばれてきたというなら、これをはじめに受け取ったという交易商人も名もなき人物であったに違いないのに、まるでみながみな、戦地に倒れた男の魂がそこにはこもっているのだと、信じきっていたような特殊な熱意が、宿っているようにセオには思えた。
 しかし、そのようなあらゆる扱いに、セオは戸惑うばかりであった。
 彼と故人との間には、ただ一度の偶然をのぞいては、まったくといっていいほど繋がりがなかったからだ。
 将軍ダレノウィットと個人的に、直接会話を交わす機会があったのは、もう――数年前、と形容するべきだろうか。
 昔というほど遠くはないが、最近とは呼べない。それも、細かい日付などは無論定かではない、ほんの通りすがりの出来事だったはずだ。
 何ら特別ではない、一日だった。
 セオはいつもと変わらず、部下の運び残した諸々の書類と資料を抱えて、回廊を歩いていた。ただ、羊皮紙を束ねていた紐が緩んで、床に散らばってしまったことが唯一の事件といえた。
 顔をしかめて荷物を壁際に置き、手近な一巻きから拾おうとかがみ込んだところに、別の腕が伸びてきた。
 無骨そうな指であったことを覚えている。
 たまたま行き会っただけの若い武人は、こだわりなく膝を折り、馴染みのなかろう巻物たちをかき集めたのだった。
 言葉を交わすことがあったとしたら、そのときだ。
「どうぞ、ウルヴァル殿」
 最後にダレノウィットが言い、書記に荷物を返したことで、小さな事件は収束した。会釈するセオに応え、武人は何ごともなく立ち去っていった。
 たったそれだけだ。
 以降も王宮の回廊で、儀式の場で、顔を合わせることは何度かあった。しかし彼らは、やや歳が近いということをのぞけばまったく共通点をもたない、別世界の住人であったようなもので、互いに気にかけるようなことはついぞなかった。
 はずだ。少なくとも、セオの側からすればそうだ。
 多分、この書簡は何かの間違いなのだ。
 でなければ、まるきり奇妙ではないか。悲愴な出陣の前、友人でもない人間に書き残す手紙など。
 しかし、そうだとして、セオにはそれを開けるよりほかなかった。とにもかくにも、いまのところ受取人としてあげられているのは自分しかいない。どこかに明確な回答があるのならば、それは書簡そのものの中にしかありえないであろう。
 テーブルから短剣をとりだして、彼はきつく閉じられた封を解いた。
 封筒に染みた油の匂いが瞬間、鼻をついた。

 『セオ・ウルヴァル殿』。

 書簡は作法通りの、簡潔な宛名書きから始まっていた。




  『わたしは今、北の国境にいます。
   朝には戦いがはじまるでしょう。
   どうにも兵士の数が足りないので、
   たぶん、危ないことになるだろうと思います。』





 子供のような、たどたどしい字と文章だった。武官にはよくあることだ。だからこそ、セオのような文官が宮廷には存在しているのだが……。




  『もしもウルヴァル殿、あなたがこれを読んでいるのなら、
   いままで、あまり話したこともないわたしから手紙が届いて、
   あなたはきっと、驚いているでしょう。
   でも、わたしは明日、もしかしたら死ぬかもしれません。
   そうなるまえに、どうしても言っておきたいことがあるので、
   これを書きます。

   わたしは、あなたを愛しています。』




「何……?」
 セオは我が目を疑った。
 だが、いくら目を凝らしても、紙面を近づけてみても、そこだけいやに流暢な一文は、消えも変わりもしなかった。




  『あなたを愛しています。』




 手紙はもう一度、あっけにとられる彼に言い聞かせるように繰り返していた。




  『これを読むあなたがきっと困るだろうと、
   わたしにはわかっています。

   だけど、文字はわたしが死んでしまっても残るだろうから、
   万が一のときのことを考えて書いておくことにしました。
   わたしはまだこの言葉をあなたに伝えるつもりはないけれど、
   かといって、この気持ちが何の形にもならず
   世界から消えてしまうとしたら、我慢できないからです。

   わたしはなるべく生きて帰るつもりです。
   そうしたら、この手紙はあなたに読まれるまえに
   わたしのところに戻るでしょう。

   わたしは、いつか自分の手で、この手紙を、この言葉を渡したい。
   あなたが何を思ったか、それがたとえ怒りでも罵りでも軽蔑でも、
   わたしは自分の耳でそれを聞きたい。

   明日、わたしが行く峠は、たぶんひどいことになるでしょう。
   でもわたしは、けっして死ぬためにそこへ行くわけじゃないから、
   勝手に願うことにします。

   この手紙があなたのところへ届かないように。
   この手紙をあなたのところへ届けないように、
   そのためにもわたしは頑張って戦おうと思います。

   ちゃんとこの手紙を取り戻したら、わたしはきっと、
   あらためてあなたのところを訪ねるでしょう。

   あなたに話しかけて、わたしの名前(家族の名前ではなく)を
   呼んでくれるように努力するでしょう。
   そうしていつか、笑いながらこの手紙を見せて、
   下手なわたしの文字をあなたに直してもらえる日が来るといい。


   最後に。

   わたしは文字はあまりくわしくないけれど、
   あなたはそれを恥ずかしく思わなくていいと言った。

   だから、書くことを仕事にしているあなたへの言葉として、
   話し、動き、戦うことを仕事にするわたしはこれを書こうと思った。
   これは、わたしからあなたへの感謝と尊敬でもあります。


                       こころを込めて   ハノーヴ』






 ――ダレノウィットは確かに、個人的な理由でこれを書いたのだ。

 書記の目からはあるまじき拙文を、セオはぼんやりと眺めた。商人たちの推測は正しかった。書簡は、英雄的な死を遂げた将軍の、最後の心の破片だった。
 だが、やはり間違っている、と彼は思った。
 何だ。これは何なのだ。
 どうして、自分なのだ。

(……わたしは文字はあまりくわしくないけれど、あなたはそれを恥ずかしく思わなくていいと言った。だから、書くことを仕事にしているあなたへの言葉として、話し、動き、戦うことを仕事にするわたしはこれを書こうと思った)

 セオは唐突に思いだした。
 例の、偶然の出会いの光景だ。
 横から、開いてしまった書類を拾いあげたダレノウィットは、文面を一瞥するや、眉と目を同時に寄せたものだ。
「ぅ――難解な」
 彼は呻くように言い、直後に、はっとセオにそれを差し出した。
「……もしや、部外者の目に触れてはまずいものだったとか?」
「いえ」
 受け取りながら、彼は頭を振った。それは単なる過去の税収報告書であり、彼の判断では字面的にも内容的にも、なんら問題など見受けられなかったので。
「ご覧の通りです」
 書面を示すと、将軍は困ったような表情で、豊かな長身を折り、床へ膝をついた。まるで縮こまるみたいに。
「俺……わたしは、文字はあまり。はは、お恥ずかしいかぎり」
 鼻の頭を掻きつつ、将軍は律儀な動きで、羊皮紙を次々に拾い上げていった。
「いや、書記長殿のような方々からすれば、こんな武辺のもののやることなすこと、端から滑稽でたまらないのだろうが」
「将軍殿はご自分の天分をもって陛下に仕えておいでです」
 逆を向いて地面を這いながら、セオは答えた。
「修辞や筆が私の天分に過ぎないのであって、何ら恥じることはないと思いますが――」
「……」
 訪れた沈黙に、ちらりと顔をあげたセオを、武人は奇妙な表情で見つめていた。しばらくして彼は口許を緩め、言った。
「しかし、それらが身についてはじめて、理解できることも、理解してもらえることもあるのでしょう」
 セオの目に映ったのは、溶けるような、どこか面映ゆそうな微笑だった。

「――」
 彼は頭を振って、幼く異質な手紙を投げ出した。
 この書簡が、セオの何かを決定的に変えるということなどない。それはあまりに脈絡のない告白であったし、とうてい単純に受け入れられる類の出来事ではなかったからだ。
 だが、文字はそこにあり、死者の言葉は確かに現世に残っている。
 セオはテーブルにつき、筆記道具を準備すると、煩雑な資料を引っぱりだした。止まっていた時間が動きだしたような勢いで。
 彼には仕事があった。
 たとえ何が起こったとして、彼の日常を支配しているのはそれだ。
 腰を落ち着けると、彼は新しい羊皮紙を広げた。
 ペンをインクに浸ながら、しばし黙考し――セオは尖った筆先を、紙の上に滑らせはじめた。






「ごきげんよう、書記長殿」
「これは、法務官殿。お仕事のその後はいかがです?」
「いやはや、ようやくめどがつきそうです。近々、そちらから大々的に人手をお借りすることになりそうで」
「承知しています。そのときになりましたら、声をおかけください」
 一礼して回廊を行こうとするセオを、「お、そうそう」と法務官が呼び止めた。彼の口の端にのぼった名は、やはり例の男のものだ。
「お聞きになられましたか、ダレノウィット将軍の一件。……どうやら、かの功績をたたえて、国葬が行われる模様ですぞ」
「は……」
 相づちを打ちそこねて、セオは口をつぐんだ。
「己の生命を顧みず、死を厭わぬ忠誠と勇気を、国王陛下がいたく惜しまれたのだとか。典礼院は忙しくなりそうですな。ああ、では」
 慌ただしく告げられ、一人回廊に残されたセオの脳裏に、死んだ男の微笑が蘇った。うろ覚えでごく薄い、印象に色がついたていどの面影であったが。
 英雄、国葬。セオは思わず顔を歪めた。
 ダレノウィットは人々が考えているような崇高な心もちで、死地へ赴いたのではない。
 それは、ただ彼のみが知っていることだった。
 何と馬鹿なことだろう。勇敢な死を遂げた男は、己の死など毛頭迎える気はなかったのだ。
 ろくな接触を持ったこともない、一介の書記官なぞに近づこうと、そんな阿呆らしい思いで頭をいっぱいにしていた。
 彼にとって死は、完全な覚悟の上に受け入れたものなどではなく、あくまで不慮の、しくじりだったのだ。
 くだらない。
 何とくだらない、偶像の英雄だ。
「ダレノウィット、……ハノーヴ」
 セオは唇をつりあげて笑った。
 それが、己に拙い愛を捧げた救国の武人に、彼が与えたたったひとつの表情だった。




 書記長の文箱の底には、それから、再び開かれることのない恋文が、眠り続けている。
 文意は同じでありながら、筆の異なる、二通の、手紙が。
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html : A Moveable Feast