− 2.《雛鳥》リッティール・カレントの証言 −
あたしの先生は、とてもわがままだ。
どんなにお腹が減っていて、他に何もないことがわかりきっていても、絶対にお肉は食べない。
不機嫌な顔をして、黙り込んで、ファーゼが野草なんかを見つけてくるのを待ってる。
熱いお風呂には絶対に入らない。
毎回逆の準備をさせられるよりはましだけれど。でも、師匠が入らないのに、弟子のあたしが自分のために、貴重な薪を燃やすわけには行かない。……あたしは、行水が嫌いだ。
月のない夜には眠らない。
次の日、どんなに大きな仕事が待っていても。朝になってうとうとしはじめる先生を、起こして、立たせて、外に連れていくのはあたしとファーゼの仕事だ。……あたしは、あの犬っころと違って、先生の従魔をやってるわけじゃない。
「面倒だ」と言って、弟子のあたしに、ろくに教えを授けてはくれない。
師には、〈雛鳥〉である弟子を育てる義務がある。なのに、あたしは早く一人前の魔物捕縛師になりたいのに、先生はただ、下働きの小娘のようにあたしをこきつかう。
手許に〈卵〉を置かない。
捕縛師がとらえた魔物の卵は、たいてい、捕縛師協会に引き取ってもらうことになるのだけれど、それでも幾つかはストックしておかないと、次の仕事に差し支える。魔物と闘うはめになったとき、盾になってくれる存在がなければ困るからだ。
それに、弟子のあたしが訓練をするための教材としても、あの、魔物を封じた……捕縛師風に言えば、〈異界の客人〉を保護した、小さな塊は必要なものだ。
優秀で力ある捕縛師ほど、多くの〈卵〉を所有している。
それが普通なのに、このひとは、ひとつとして卵を保管しない。毛むくじゃらで三つ目のファーゼを連れて帰ってくるまでは、いつも身体ひとつで仕事をしていた。
「重いのはきらいだ」
『協会』に卵を引き取らせるとき、先生は呟く。
まったく、なんてわがままな男なんだろう。あんな、あたしの掌にもすっぽりおさまるような塊、幾つ腰に提げてもちっとも邪魔にはならないだろうに。先生が重いというなら、あたしが全部持っていてやるのに。
早くたくさんの卵を使いこなせるようになって、あんたなんかさっさと追い越してやる。こんな、昔の名声にあぐらをかいたいいかげんな捕縛師。
ほんのちょっと顔と、頭がいいだけが取り柄の男。
……静かに眠る先生を見つめながら、あたしは今までに何度も考えたことを思い返している。
それと、考えたくなくたって、勝手に頭をよぎる、知ったばかりの話のことを。
あたしのなかにある、師匠の少し軽薄な肖像画には、今、新しい陰が描き加えられている。
たとえば、何年も前に先生が亡くした大事な〈つがい〉……捕縛師になった先生と、ずっと一緒に過ごすことを決めてくれた幼なじみの話とか。
その人を失って、先生が協会から離れて仕事をするようになったいきさつだとか。
百、持っていたという卵を、一晩で全部死なせてしまったときの話とか。
それから卵を持たなくなったのは、染みついた同胞の血の臭いを怖れるみたいに、魔物たちが先生から逃れようと暴れて、まったく言うことを聞かなくなったからなのだとか。
生きていることを苦痛だと、思っていながら生き続けていたのは、それが亡くなった〈つがい〉の最期の願いだったからなのだとか。
――すべての出来事が起こったのが、新月の夜だったという、ことだとか。
……きれいなひとだ。
眉間の皺もなく、悪態に歪む唇もない。ごく静かなその顔を見て初めて、あたしはこのひとをきれいだと思った。
だけど、なんてつまらない、人形みたいな姿だろう。
先生、今夜は曇りで、月はひとかけらさえも光をこぼしてはくれない。そんな夜のなかなのに、どうしてあっさりと眠りにおちてしまえるの?
永遠に醒めることのない、深い深い眠りに。
ファーゼは狂ったように啼いていた。
鼻先を先生の身体に押しつけて、啼いて啼いて。
風を喰らって、跳ぶように暗闇の中へ消えてしまった。
あの犬っころの、……先生がいない今となってはまた、『魔物』と呼ぶしかないあの異形の獣の、身を切られるような悲しみは、あたしにも伝わってきた。
――行かないで往かないで、置いて逝かないで。
ろくに教えも受けていないあたしなのに、ファーゼの言葉は確かに聞こえた。理解できた。誰だって、どんな存在であっても、それが魂を持つかぎり、愛するものをなくすのは悲しいこと。
獣だって、あたしだって。
……先生、あなただって。
「俺の『一生』も、案外、短かったな」
呼吸を止める寸前、虚ろな声で、先生は呟いた。
「おい。……あれを、頼む」
先生が自分のものにして持っていたものは、何一つなかったはずだから、こんなふうに言うのは、きっとファーゼのことだ。
先生は一度だって、彼の名を呼んだことがなかった。あの名前だって、不便に思ったあたしがつけたものだ。
呼び合うことがなくても、通じ合っていた『二人』だった。
「おまえにはもう、あれの声が聞こえるだろう。……一人にしないでやってくれ。寂しくさせないでやってくれ」
そんなことを言われても、無理だ。ファーゼは先生のもので、あたしには属さない。何も許さない。
「もしもそれが無理なら、……おまえが」
先生は自分の杖をあたしに示した。一人前の捕縛師の証、〈石の杖〉。
あたしに、かれを封じろというのか。仕留めろというのか。
……命を失った先生の傍らから心を失ったファーゼは去り、〈親鳥〉を失ったあたしは、しばらく、立ち上がる力を持てないでいる。
譲り渡された杖を握りながら、あたしは自分が、先生のそばにいてその姿を見ていたその日々だけで、捕縛師として最も貴重な力を得ていたことを知った。
なぜならあたしには、森の声が聞こえる。
獣たちの、鳥たちの、心の声が、聞こえる。
遠く、尾を引く慟哭の叫びをあげながら、消えていくファーゼの声も。
あたしは、捕縛師にならなければならない。
あたしには、そうして、やらなければならないことができたのだ。
……あたしはこうして、すでに杖を得た特殊な〈雛鳥〉として、世界を覆う広大な森の中へと旅立つことになった。
悲しみに狂わされてしまった、そう、かつての『家族』を追って。
あたしは、昔に先生がしたみたいに、死に逝くひとからの願いを受け入れたわけなのだけれど。
――何で前もって少しくらい、あなたのそういう心のかけらを、見せておいてくれなかったの。
そうしたらあたしは、もう少し出来のいい弟子でいられたかもしれない。
月のない夜、ふとしたときにいつも思う。
後悔ではないけれど、もしかしたら、あたしは先生のことを労れたのかもしれない。もっと従順で、物わかりのよい弟子になって。きかん気とかじゃじゃ馬とか言わせずに、先生を敬う、そんな……。
――だけどそう言ったらきっと、このひとはうんざりと、
「それが御免だったからに決まってるだろう」
と答えたのだろう。
……本当に、わがままなひと。