エルドミラ諸侯領、ウィル渓谷のあるじ、サラアゼリアス・ウィリバレイは、その日、最後に両目を閉じてから七日ぶりの覚醒を迎えた。
「おお、だ、旦那さま」
枕辺に真っ先に飛びついたのは、長く領主家の家宰を務める老アルベンであった。
「よくぞ、よくぞお目を覚ましてくだされました」
アゼリアスは、未だまともな像を結べぬ瞳を、忠実な老臣の上に向けた。出たのは潤いのない、掠れた声だった。
「……私は、どうなったのだ?」
「はい。はい」
たまらぬように頷きを繰り返し、家宰は答えた。
「露台の崩落に巻き込まれ……腰の半ばまで石くれの下敷きに……。すぐさま医者を呼び、かなうかぎりの手当を致しました。ですが……だ、旦那さまの御足は……」
「……」
「元の形を保つのが、やっとでございました。もう二度と、御身のお力一つでは、歩くことも……た、立つことさえできまいと……」
「……そうか」
淡々と、アゼリアスは呟いた。老家宰が、堪えかねたように咽び泣いた。
「それでも、お命があるだけ奇跡でございます。グルダフリットさまを始め、城中、心を一つに祈っておりました」
アルベンは枕頭から立ちあがり、啜りあげながら身を翻しかけた。
「旦那さまのお目覚めを伝えて参ります。姫さまも、どれほど御安堵なされるか……」
「アルベン」
吐息のように、アゼリアスは発した。
「まだ、いい」
「し、しかし……」
「わかっている。だが……もう少し、時間がほしい」
「は……」
「妹には、心配を懸けた、と伝えておいてくれ」
家宰は、この数日来の病臥から、褪めるように青白くやつれた若い主の顔を見つめ、また、涙ぐんだ。深々と礼をとる。
「かしこまりました」
老臣は去った。アゼリアスは、瞼を閉じた。
空気を澱ませぬようわずかに開いた窓から、入り込んでくる風の気配がする。
「……賭けは、私の勝ちだな」
領主は、頬を撫でる微風に向かって囁いた。己が身の上の、大いなる喪失を知った者とも思えぬ、落ち着いた調子であった。
「いるのだろう、暗殺者?」
一瞬の無風の後、部屋の隅に影がさした。
今までどこに隠れていたものか。まさに忽然と、一人の男が現われ、アゼリアスを凝視しているのであった。
不具となった領主は身動ぎもせず、言った。
「私は、生きている。だから、約束通り、私がおまえの主だ」
「……今日目を覚まさねば、殺すつもりでいた」
心の揺らぎを感じさせぬ低さで、男が応じた。
その大柄な身体は、ごく自然に部屋の風景に溶け込んでいる。どのようにしているのか、一見壁の染みにしか思えぬほどに、目立たぬのである。
しかしアゼリアスは瞳を閉じたまま、得体の知れぬ男の得体の知れぬ業を、見ることもしない。
「……何故だ、渓谷公」
暗殺者は問うた。
「今も、……あのときも、呼べば兵が殺到しただろう。何故、それをしない」
「そうすれば、兵がやってくる前に、おまえは私の喉を掻き切って姿を消しただろう」
アゼリアスは答える。
風がそよぐ。
「古い時代の守人たちには、私のやりかたは過激に過ぎるようすでな。……私を疎ましく思うものは多い。おまえの雇主が誰かというのも、見当はついている。だが私は、その相手と事を構えたくない」
今はまだ、な。微笑すら浮かべ、ささやく領主の表情は、いっそ恐ろしいほどに穏やかだった。
「……」
「おまえのような者が、欲しいと思っていた」
部屋の隅で、男の双眸が不気味な光を放った。
「俺のような、暗殺者がか」
否、と口中でアゼリアスは呟いた。
「おまえのように、行きたい所に行き、知りたいことを見聞きする耳目が、欲しかった」
「……」
男の眼光は矢のごとく、領主につき刺さっている。だが変わらず、彼は緩い呼吸以外には、微動だにしない。
「おまえは私と賭けた。私を殺せれば、おまえの勝ち。死ななければ、私の勝ち。そのときは、おまえの残りの人生を私によこすと」
「……俺が、渓谷公から脚を奪った」
アゼリアスは吐息した。
「ならば、脚の代わりをしろ」
「渓谷公を、殺すかもしれない……」
「そうなれば、それが私の運命なのだろう」
病身の領主はうそぶいた。
男は、沈黙した。アゼリアスは、再び呼気を震わせた。
「……そこのチェストに、私の印章指輪が入っている。それを持って、アルベンという家宰に取り次ぎを……」
領主の声は、そこでとぎれた。
男は、彫像のように身動きしなかった。やがて、アゼリアスの弱々しい呼吸が聞こえてくると、彼は初めて、部屋の隅から這い出した。
表情のない顔が、青白い貴族の面を見下ろす。
寝入ってしまったアゼリアスは、その日ついに、再び目を覚ますことはなかった。
下肢不随となったアゼリアスが再び意識を取り戻した翌々日、ウィリバレイの城臣に、一人の従僕が加わった。
名を、マハトという。
無口で陰気なこの大男は、しかし忠実にあるじに献身した。
やがてアゼリアスの身辺はマハト一人に任せられるようになり、それと時を同じくして、城主の私室は高い塔の最上階の一室へと移った。
アゼリアスが〈塔上の公爵〉としてその名を不動のものにし、怖れられるようになるのは、これ以降のことである。