02.兄弟
「なあ。なあ、兄貴。なあったら」
どれだけ意識から閉め出そうとしても潜り込んでくる呼びかけに、セオドールは溜息を吐いた。仕方なくあげた視線の先で、つまらなそうに唇を尖らせている相手を、睨みつける。
「おっ、やっと聞いてくれる気になったのか」
途端、ふてくされていた表情を無邪気なものに変えて、ランダル・オルタリクは身を乗り出した。その隆々とした両腕の下で、無惨な音をたてて潰れていく書簡に顔をしかめつつ、セオドールは言う。
「何度繰り返せばわかる。この部屋で、仕事に取りかかっているときだけは邪魔をするなと。おまえの耳は飾りものなのか、ランダル」
「だって、こんなにいい天気なんだぜ。ずうっと部屋にこもって書きものなんてしてたら、身体が腐っちまう」
「それはおまえだけだ。手伝う気がないのなら、一人で大人しく、遠乗りでも何にでも出かけてこい」
「手伝うのは構わねえけど、俺に書ける字っていや、自分の名前だけだぜ。知ってるだろ?」
「だから、黙ってさっさと出て行けと言っているんだ。わからないか?」
「ひっでぇ」
呻きながらも、ランダルは上機嫌だ。大きな口を、屈託なく開けて笑っている。縦にも横にもよく育ち、その気になれば、どんな屈強な戦士にもまけない腕っ節を誇るようになりながら、彼がセオドールの前で見せる態度は、昔と変わらず飼い主にじゃれつく子犬のそれだ。
前に後ろにまとわりついて、愛嬌を振りまく。どれだけ邪険に扱っても、諦めることをしない。なぜなら見あげる眸には、もはやとりかえのきかない、絶対の信頼が宿ってしまっている。
(ねえ。ねぇ、にいちゃん。ねえったら)
そう言って、いつも半べそをかきながら追いかけてきた、六つ年下の弟を、セオドールは決して嫌っていたわけではない。ただ単純に、もてあましていただけだった。かまわれたがりで甘えたがりのちびすけ、かつての泣き虫ランダルのことを。
真鍮色の髪のランダルは、オルタリク家に迎えられた、二番目の子供だ。
彼は拾われたとき、街道沿いの背の低い茂みの影で、今にも冷たい骸になってしまうところだった。新年の訪れを待つ〈暦越え〉の準備のために、城の主だったもので市へ出かけた帰り道。野薔薇の群生地での出来事だ。セオドールが、ウォーレスの『息子』となって、およそ二年が経とうとしていた。
冬を越すための諸々の支度を整え、あふれる荷を積み込んだ馬車を、彼らは中途で止めねばならなかった。踏み固められた轍の上に、三日前、行きに通ったときにはなかったものが、横たわっていたからだ。
まだ若い、男女の遺体。そこには、明らかな暴力の痕があった。
「おお、なんと、酷い」
嘆声をあげ、真っ先に馬車を降りたのは、一行を任された城付きの司祭、ベルトラン師である。おそらく夫婦であろう、かわいそうな死者たちの傍らにひざまずき、祈りの言葉を呟く彼の後を、大人たちが次々と追う。
父親の代理という肩書きで同行し、荷台の奥に乗せられていたセオドールは、そこから滑りおりると、司祭の陰から、検分のようすをそっと伺った。ベルトランの節高い手は、彼を押しやろうとはせずに、逆に引き寄せるようにして頭を撫でた。長くオルタリク家に仕えてきたという老師は、この世の醜さ、残酷さを、決して子供に隠そうとはしない人間だった。
「物盗りの仕業だろう」
街で大きな市のたつ時期には、それに参加する人々を狙った追いはぎが、多く出没する。彼らも、その不幸な犠牲者であろうというのが、みなの意見だった。
すぐに、ベルトランの指揮の下、夫婦の埋葬が行われた。兵士や従僕たちが墓穴を掘っている間、セオドールは死者に供える花を探した。真冬のことで、そうそう見つかるとも思えなかったが、旅の横死というものに、彼はまだ鈍感ではいられなかったのだ。
そのときである。野薔薇の茂みの下に、彼が奇妙なものを発見したのは。
最初、彼はそれを、略奪を免れた夫婦の荷物なのだと思った。しかし、地面に腹這いになって伸ばした手に、触れた感触は想像と違った。布でぐるぐる巻きにされた、酒瓶のような形をしたその包みに、守られていたのは一人の赤ん坊であった。
母親が、とっさに我が子を救おうと、押し込んだのだろうか。赤ん坊の額には、その際についたとおぼしき斜め傷の血が、すでに黒くこびりついていた。身体は冷たく、強張っている。だが、本当にかすかだったが、まだ息をしていた。
結末として、命丈夫な赤ん坊は何とか助かり、そのまま城で養育されることに決まった。経緯を知ったウォーレスが近隣に人をやり、夫婦の素性を調べさせたが、確としたことは知れなかったのだ。
養父によって名を与えられた赤ん坊――ランダルは、城下の村から雇われた乳母が面倒を見ることになった。
とはいうものの、居心地よく整えられたオルタリク家の子供部屋を、急に分け合うことになったその同居人が、どうしても気にかかるセオドールは、乳母の代わりに世話をしてやることもしばしばだった。ウォーレスに、『兄』として、『弟』のことを見てやれと言われたからばかりではない。自分と、よく似た境遇にある幼子に対する、共感がそうさせたのである。彼にはこの哀れな、しかし恐ろしく強運な赤ん坊を、まるきり他人のようには思えなかったのだ。
両親との別れの記憶がどこかにあるのか、ランダルはやや神経質な子供だった。揺りかごの中で過ごしていた時期も、立って歩くようになってからも、周囲に人の気配が絶えると、たちまち不安になる。そして、一度泣き出してしまうと、乳母かセオドールの腕に抱かれるまで、落ち着くことがない。
やがて言葉を覚え、はっきりした自我を持つ年頃になっても、それは変わらなかった。逆に、自分の足でうろつき回れるようになっただけ、ひどくなったといえる。
「にいちゃん、ねえ、待って、にいちゃんったら」
――つまり、常に彼の後を追いかけて、離れなくなったのだ。
最初こそ、それを可愛く思っていたセオドールだったが、月日が経つにつれ、気持ちはだんだんと重荷に変わっていった。おりしもベルトラン師から、本格的に勉学を教わりはじめていた矢先であったため、弟のお守りに割ける時間が減っていたというのもある。しかし一番の原因は、あんまり自分に頼りきっている彼に、漠然とした不安を感じてしまったことだ。
ランダルがやってきて六度目の新年。子供部屋から、独立した自分の部屋を与えられたのをきっかけに、セオドールは彼と距離をおくようになった。前にも増して、師である司祭や、ロディとともに過ごすことが多くなり、弟が訪ねてきても、よほどのことがないかぎり相手をしなかった。泣いてぐずれば叱る。よりかかってくれば突き放す。そうすることで、彼は弟の甘えの虫を、追い出すことができると信じていたのだ。
セオドールは、忍耐強い子供だった。だが、ランダルはそうではなかった。妥協をしない兄の態度に、先に限界を迎えたのは弟のほうである。訪ねていった先で、相手にされない悔しさと寂しさに、ついに癇癪を起こしたランダルは、セオドールの部屋を滅茶苦茶に荒らしてしまった。
目の前で、火のついたように大暴れするランダルに対して、セオドールは存外冷静だった。叩き壊され乱される部屋の中で立ちつくし、小さな嵐がやむのをじっと待つ。やがてときが訪れると、彼はおもむろに、疲れ果てた弟に近寄り、まだ柔らかすぎるその頬に、生まれてはじめて手をあげた。
打たれた場所を押さえもせず、ぽかんと見あげるばかりのランダルに向かって、セオドールが告げたのは一言だけだった。
「出ていけ」
ランダルは、顔をくしゃくしゃに歪めた。そうして、脱兎のごとく部屋を飛び出していった彼が、行方をくらましてしまったことがわかったのは、その日の晩餐がはじまった後だった。
まさに、城中総出の捜索となった。
無論、セオドールもそれに加わった。ランダルに行動を起こさせたのが、自分の打擲であろうことはわかりきっている。しかし他に、何か上手いやりようがあったのか。どうすればよかったというのだ。己への問いかけは、次第に弟への非難の言葉に変わっていった。
「坊ちゃん、いました!」
すっかり日も落ち、ままならぬ宵闇に包まれた悪条件の中で、それでも、燭台の蝋燭が三分の一と減らぬ間にやってのけたのはロディである。
「どこに!?」
「裏門です! 荷馬車の下!」
小柄でかつ、夜目の利くこの友人でなければ、とうてい見つけられないような場所だった。
「……車輪の陰で、眠ってたんですよ。荷台の干し草を毛布の代わりにして」
重い沈黙の支配を、少しでも和らげるようにロディが言った。息を切らして駆けつけたこちらの気も知らず、のんきに寝ぼけ眼をこするランダルを、引きずって戻った自室。拗ねたふうにうつむいたままの弟を睨みつけて、セオドールは唇を結んだままだった。
彼がそれをほどいたのは、やがて吐息したロディが、『誰か大人を呼んできます』と立ち去ってからのことだ。
「……殿が帰ってきたら、何ていうと思う」
目の前の肩が、びくりと震えた。震えたが、返事はない。面もあげない強情さに、セオドールの苛立ちが爆発した。
「思うとおりにいかないからって、みんなに迷惑をかけて、心配させて、おまえみたいな我が儘、殿だっていらないって言うぞ!」
「いらないのは、にいちゃんじゃないか」
途端、返ってきた語気の激しさに、彼は反射的に口を噤んだ。ランダルが、真っ赤な顔をして、拳を握っている。問い返すよりも早く、弟はもう一度、全身で叫んだ。
「おれのこと、いらないって思ってるのは、にいちゃんのほうじゃないか!!」
セオドールには、答えることができなかった。いつのまにかあげられていた、弟の潤んだ視線に、胸の奥の隠しておきたい部分を突かれたような気がした。
「メリサが教えてくれた。おれがうんと小さいとき、にいちゃんがおれのこと助けてくれたから、おれはここにいられるんだって。にいちゃんが連れて帰ってくれたから、おれはここの子なんだって」
そういえば、乳母は言っていた。小さな坊ちゃんは、自分が赤ちゃんだったときのことばかり、坊ちゃんのことばかり、いつも聞きたがるんですよ、と。オルタリク家にやってきたばかりのセオドールの面倒も、やはり同じように見ていた彼女は、優しく笑ったものだった。――お父上のお話ばかり聞きたがった、坊ちゃんとそっくり。
だから、いなくなったりしたのか。ぼくが、おまえのことをいらないと思ったから?
彼は茫然と呟いた。鼻をすすりあげて、ランダルがうなずく。今にもばらばらになってしまいそうないびつな表情だ。だが、甘ったれのこの泣き虫が、最後の砦を崩さない。こんなときにだけ、両目と口許にぐっと力を込めて、毅然と涙をこぼさずにいるのだ。
「だって、にいちゃんが、おれを、にいちゃんが、おれの」
「――ランダル」
たどたどしく続くその説明を、セオドールのほんの一言が黙らせた。恐れにも似た動揺に、たちまち小さな身体が強張る。昼間、自分の叱責を受けたときにも、彼はこんな目をしていた。そう思うと、たまらなくなった。
……六つ離れた兄の、力いっぱいの抱擁は、ランダルには痛かったに違いない。なぜなら、両腕の中にとりこまれ、ぎゅうと締めつけられて、ついに彼は声をあげて泣き出したから。
背中に、必死の強さでしがみついてくる指を感じながら、いつしかセオドールも泣いていた。弟を見出した冬の日、冷たく凍えきったいとけない存在を少しでも温めようと、己の懐に抱いていた、帰り道のことを不意に思い出した。確かに、この命をつないだのは自分だ。見つけて、生かした、自分には、彼に対して、これからずっと続いていく責任があるのだ。
「おまえは、ぼくの弟だ。ずっと、ずっと」
鈍い真鍮の色をした頭が、強く胸に押しつけられた。干し草の絡んだ髪の毛に鼻面をうずめながら、セオドールは囁いた。
「……ごめんよ」
「――兄貴、なあ、兄貴」
軽く揺さぶる手に、追憶の波から引き戻され、セオドールは目を瞬いた。たちまち色を濃くしていく視界の中で、十余年の時を一息に飛び越した弟の顔が、不審も露わにのぞきこんできている。
「どうしたんだよ、急に、ぼうっとしちまってさ」
それには答えず、とうに背丈は自分を追い越し、もはやこちらが仰がねばならないほど大柄になった青年の姿に、セオドールは双眸を細めた。
あの日から、かつての泣き虫はむやみやたらと泣くことをやめた。懐きすぎた犬のように、しょっちゅう後をついて回る癖は今となっても抜けないが、それなりの分別をわきまえるようになった。一時的な孤独に、怯えなくなった。どころか、気づけば一人城を忍び出ることを覚え、近隣でやんちゃのかぎりをつくす餓鬼大将の名に、己のそれを鳴らすようになったくらいだ。
彼は理解したのだろう。二人抱きしめあって泣いたあのとき、互いの間に芽生えたものの強さを。それは、流れる血よりも濃い、いかなる力にも断ち切れぬ、家族の絆であった。
「あーあ。んなぼんやりするくらいなら、息抜きにちっとは俺につきあってくれてもいいだろうによ。ったく、いつか尻に根が生えて、本と黴に埋もれ死んじまっても知らねぇぞ……」
いつまでも返事をしない無反応ぶりに、再びふてくされたランダルが、街道筋で覚えた乱暴な言い回しで、ぶつくさとぼやいている。思えば、憧れと敬愛が勝ちすぎて、長く養父を『父』と呼べずにいた自分に、その語彙から『親父殿』という妥協案を示してくれたのも、彼だった。
セオドールは、心の中で密やかに微笑んだ。そして自分はそんな、この一番最初の弟に、常に救われてきた。深い感謝と愛情を、ことさらに口に出してみせたことこそなかったが。
「そんなにいうなら、表へ出ろ、ランダル。久しぶりに相手をしてやる。それでおまえが私に勝ったら、丘だろうが街道だろうが、どこにでも連れて行けばいい」
つきあってやる。言って立ちあがれば、見あげる琥珀の眸が輝いた。
「本当だな!? よっし、今日こそ、絶対に負けねぇからな。覚悟しろよ!」
拳を打ち合わせて息巻くランダルが、さっそくとばかりに部屋を飛び出す。二人の間で『相手』といったら、父親仕込みの武器のやりとりと相場は決まっているのだ。
書簡を手箱に片付け、インク壺に蓋をして、さてゆっくり続こうとしたセオドールを、急かすように、弟の声が響いた。
「俺が勝ったら、みんなで市へ行こうぜ! 何から何まで、兄貴のおごりで! たまには可愛い弟と妹を、喜ばせてやりてぇだろ!?」
「――馬鹿、兄弟そろっての願いなら、初めからそう言えば叶えてやるものを」
今度こそ面に出して苦笑して、彼は書斎を後にした。どのくらい手加減すれば、あの純粋すぎる弟を満足させてやれるだろう。そう考えながら。